弟子筋コラム 「ドイツ留学顛末記 第1章」 野村 克巳  

1 職務への決意
(1)9割1割理論
 私が就職したのはオイルショックの真っ只中1976年であった。景気が悪いからという理由で大学院に2年行き、就職しようとしたらなお景気が悪くなっていた。「新進気鋭の技術者の卵」の自負をもって勉学をしてきた自分の浮いた気分は吹っ飛んだ。国立大学の設立間もない我が学科の就職戦線は友人を見ていても厳しいものがあった。私が今の職場に入れたのも幸運だった。
 社会にあってはどう生きるか?恩師からは「9割1割理論」をたたきこまれていた。つまり、仕事は9割の力でこなせ、残りの1割は今の職場から外へ飛び出すぐらいの気持ちで力を蓄えよ(ついでなら、同じ職場に10年いると思うな!)、というものである。このような話は末石門下生なら相当の数の人が聞いていると思うが、決して実践は簡単ではない。生来の不器用な性格の私も、現状の仕事に埋没し、家に帰るとぐったりで余力などなかった。しかし「待ち」の姿勢では変化は訪れないこともわかっていた。

(2)運を自分でさがす
 そのうち、運は自分でさがそうと決意した。いつもより1時間早く起きることにした。そして自分に何ができるか、何か挑戦できることはないか探し出した。かれこれ1ヶ月が過ぎた頃、職場(その時は下水処理場にいた)の行事予定表に「ドイツ人8名見学」と書いてあった。「これだ!これが挑戦目標だ。」と直感した。最新式の下水処理施設が稼動して間もない時だった。見学はこの施設を見に来るのが目的だと理解した。場長に見学内容を確かめ、英文パンフレットの有無を聞いたが、日本語のパンフがようやく出来上がったところである。「そんなものないし、新たに作る余裕はない」というので、「私が作りましょうか?」と申し出た。しかし、私はその現場には派遣職員で駐在していたので、場長は私の所属長ではなかった。「君に頼む権限はない。君の所属長にそこまで頼めない。」と遠慮する。
 英語のパンフがあったら便利なのは目に見えていた。「わたしが、勝手に作ります。役にたったら使ってください。」として勝手につくることにしたのである。その頃はこの施設の初期稼動調査のため、毎月のように24時間の水質追跡調査が行われ、職場に泊り込みで分析を行うことが多かった。その合間をぬって作成が始まった。といってもワープロもなく、タイプライタも職場にはなかった。施設の監視用のデータロガの古い大型タイプライタが、鉄の格子に覆われて据え付けてあった。幸い1台が予備で空いていた。格子の窓をねじをはがし、格子の中にもぐりこんで英語のタイプ打ちが始まった。
 こうして英文パンフが出来上がったのは見学直前だった。恩師から「積極的に行け」とサインが送られてきた。場長に「今日は参加してもいいですか?」と尋ねた。「もちろんだ。ありがとう!」こうして勤務経験2年生の私が8名の外国人見学者の応対の席に出ることになった。

(3)まだ若い
 一般説明が終わり、現場説明に全員が移動をすることになった。人の順列が崩れた。「チャンス!」と、私は見学グループのボス格と思われる教授(弁慶ならぬベンケという名前でいかにもドイツという威厳のある風貌だった)めざし近づいた。へたな英語で話しかけた。すると「ドイツに来て勉強しないか?」と聞いてきた。耳を疑った。「それはうれしいことだが、私は若いし、金もないし、時間もないし・・」とないないづくしをつい言ってしまった。「しまった。しかし現実だ。この見学会を成功させるだけで今回の挑戦は大成功なのだ。」と満足であった。しかし、その夜、レセプションの席で恩師は再びこのドイツ人のボスと出くわした。「今日の昼に会った若者をドイツに寄こさないか?」と再度持ちかけてきた。いよいよ話はほんものとなった。

2 目標の設定
(1)留学生試験の挑戦
 しかし、教授は留学を受け入れる具体的な予算の裏づけを持っていなかった。話は行ったり来たりで結果がなかなか出なかった。恩師と相談して、「奨学金を取ってくるしかない。」と、留学生試験を受けることになった。1回目は目前に迫っていた。応募用紙の書き方もろくにわからず、やみくもに出した。受けた筆記試験もひどかった。質問のドイツ語の意味がわからないのだ。もちろん答えなど書けるわけがない。恩師の苦笑いの顔が思い浮かんだ。お恥ずかしい。ドイツ語もろくにしゃべれなかったのである。
 あわてて、ドイツ語教室に通い出した。「大丈夫、倍率は3倍だ。3年受ければ合格する。」と自分に言い聞かせた。語学の受講生はみんな留学かなにか目的を持っていた。ドイツ人のドイツ語にも少しずつ慣れ、1年間の準備をすることができた。

(2)補欠とは
 2回目の筆記試験は無事済んだ。面接試験では何度も「現地での研究計画は?」と尋ねられた。ベンケ教授とはそこまで打ち合わせていなかった。一般的なことしか答えられなかった。「もう1年おあずけか?」不安がよぎった。合格発表の日。結果は「補欠です。」という。「補欠て何ですか?」「補欠ですが、合格者と同等の扱いです。」という。要するに合格したのだ! 合格者はほとんど文学・音楽・医学等大学関係者ばかり。役人とおぼしきものは私しかいなかった。いかに役人が留学が困難かを物語っていた。