弟子筋コラム 「ドイツ留学顛末記 第2章」 野村 克巳  

3 渡独にあたって決意したこと
(1)自分だけの成果にしない
 渡独にあたって決意したこと、それは、「自分だけの成果にしない」ということである。もちろん、恩師の支えも、職場の上司の暖かい理解もあった。もちろん、職場ではいやみも言われた。「自分だけいい目をしやがって・・。」
 職場を放棄するするつもりなら、何を言われても放っておけばよい。しかし、私は職場に必ず帰ると約束した。職場の許可が下りるためには次の質問に答えなければならなかったのである。@行ってすぐやめることはないか?A行ったきり帰ってこないということはないか?B必ず1年で帰ってくるか?(結局この質問にはうそをついたことになるが)C帰ってきてすぐやめるということはないか?これらの質問に「はい」と答えた。つまり、留学を個人的な成果にしない。国際交流の橋になる。という決意である。自分が公務員だったのでよけいに「業務の一環として」という意識が芽生えた。

(2)語学教室
 この留学には語学研修がついていた。4ヶ月も研修所に入れられた。その日に習いたてのドイツ語で街に繰り出し、買い物をした。下手なドイツ語が各国の留学生との共通の言語だった。日中韓の留学生がドイツ語で話しをしているのも奇妙な光景だった。「我々は隣国どうしで長い文化交流の歴史もある。なのに、なぜこの私は(もちろん彼らも)今まで交流をしたこともないし、対話する共通の言語を持っていなかったのだろう?」お互い、苦笑いした。別の韓国の学生は日本人は母国を侵略戦争で荒らした連中だと教育を受けていて、偏見の目で我々を当初見ていた。心の底では日本人を信じようとしなかった。我々日本人に打ち解けるようになったのは研修のほとんど最後になった頃だった。

(3)アイデンティティーということ
 アイデンティティーということばは、海外の連中とつきあった時に初めてわかる。自分を主張しなければ生きていけないのだ。語学研修でも他国の連中はどんどん手を上げる。発音はむちゃくちゃだ。文法もいいかげん。でも、「私はこう思う。あなたは私の言葉がわからないのか」とわからないのは人のせいにする。控えめな日本人(といっても私だけ)はいつも置いてきぼりになる。これではいかん。いやでもともかく必死でしゃべった。しゃべった分だけ語学は上達したのである。

(4)途上国と先進国と
 語学研修中は寮に入った。寮にはいろんな国からのお留学生が雑居していた。途上国の留学生は両極端に分かれる。母国では金持ちのエリートの子息で権威主義的、毎日国際電話で家族と話をするタイプ。そして、建国の精神で一人で国を救う気概で来ている留学生である。後者は私がずっと付き合っていた中国からの留学生であった。彼は国のこととなると何時間も話をした。先進国に比べ途上国の奨学金はかなり少ない(生活は同じはずなのに!)のに、一部を大使館に送金をして、残りのこずかいで自炊ばかりしていた。残念なことに、あの天安門事件以来消息がわからなくなっている。機会があれば何とか探したい。
 彼とは週末を利用して一緒にスケッチに出かけた。二人で枚数が数十枚たまったので2人展を企画することにしたが、額縁も会場もない。語学研修所の所長に相談に行った。所長は大歓迎だった。人口6万人のちいさな街に何百人の留学生がうろうろしている状態を想像すればおわかりいただけるだろう。一時滞在の留学生に対する迷惑と思ったり、好意的に感じたりいろんな感情が市民にある。いかに研修所を市民の感情に溶けこませるか気を使っていたのである。「カメラを持つ日本人が絵筆を持って我が街を描いてくれた。」こんなキャッチフレーズで銀行ロビーを1週間借り切って展覧会が開催された。我が街に思い入れのある何人かの市民は絵をぜひにと買って下さった。中国の彼にはちょっとしたこずかい稼ぎになったかもしれない。これも私のアイデンティティー主張の一つであった。

(5)ドイツ人を批判する日本人
 しかし、アイデンティティーもいただけないのは、ドイツに世話になりながらドイツの悪口をいう日本人である。語学研修も終わり、大学のあるアーヘンに移動して後のこと。特に企業から派遣されたと見られる連中がサロンを作り、週末にはテニスをして生活情報を交換する。ついでにドイツ人の悪口(と私には見えた)を交換し合ってお互いを慰めあっている姿だった。文化が違うのは当たり前、意見を戦わせればいいじゃないか。影でこそこそいうな。という気持ちになり、できるだけ、そのような輪に入らないよう心がけた。同じ輪にはいっていると2重人格になりそうな気がしたのである。ドイツ人とは真正面から真剣勝負したかった。