弟子筋コラム 「ドイツ留学顛末記 第3章」 野村 克巳  

4 留学延長の生みの苦しみ
(1)上司に恵まれて
 結局ドイツには2年いることになった。残留の条件は「博士論文に着手する」ことであった。また、恩師も上司も根回しに走り回っていただいた。弟子というのはなぜこうも手がかかるのだろうか? 博士論文のため、研究プロジェクトを一つ起こすことが決まった。教授からそのプロジェクトリーダーを命ぜられた。学生が5人着いた。彼らは当時でも時間給1000円程度で研究所のアルバイトをしながら学費を稼いでいる。日本のように、喫茶店のバイトで時間を過ごすより、よっぽど勉強になる。機械工学の学生が衛生工学のプロジェクトにバイトに来る。理由は「水処理の機械もあるはず。機械がどう使われるのか知っておきたい。」である。こんな事が簡単に言えるのも、ドイツならではの学生気質だと思わないだろうか?
 彼らは入れ替わり立ち代り研究所に来る。自分の作業を済ませば授業に出かける毎日だった。私も四六時中現場にいるわけではいない。今日の作業が何なのか的確に漏れなく伝える必要があり、作業シートを伝達の道具にして連絡を取った。古びた実験器具はしょっちゅう故障した。工作のおじさんにその度に世話になった。なまりのきつい方言は半分ぐらい聞き取れない。ああ大変だ。

(2)論文を書き上げる
 博士論文はもっと大変だった。延長の1年間はあっという間に過ぎた。しかし、実験は一部を残していた。一旦帰国し、全体のデータをまとめてドイツ語で100ページ書いて早く出せといわれた。しかし、帰ってみると家庭の経済事情が左前になっていた。そんなことやっている場合ではなかった。「仕上がらないかもしれない。」と弱音を吐いた。ドイツに行ったときの決意を思い出して冬空に向かって叫んだことを今でも覚えている。「まけるもんか!」。友人も応援してくれた。もう一度挑戦した。朝5時起きがまた始まった。職場の勤務の合間を縫って論文書きが続いた。

(3)ワープロの登場
 といってもタイプライタでは原稿を貯めることはできない。自分の原稿をドイツまで郵送して添削してもらわねばならない。語学のハンデのある自分に一番ふさわしい方法は、と探した。ほどなく液晶のワープロができたと報道された。フロッピー1枚に英文100ページ入るといわれた。驚異的な記憶容量だ。その1枚で論文は完成だ! 関西では大阪のショウルームにしかない。さっそく走っていった。「それを下さい!」京都では第1号の客だった。液晶の窓はたった(記憶では)24文字しか見えなかったが、宝物だった。原稿をできあがったところから順次ドイツへ送った。まだインターネットはなかった。郵便のやり取りが続いた。結局帰国後口頭試問にたどり着くまでに5年間が費やされた。この記念すべき口頭試問に恩師が同席することが決まったが、この旅費問題もドイツの教授は「招待する」と言ってくれた。本当に感謝した。

5 ドイツ全部を率いる?
(1)口頭試問
 口頭試問は87年11月10日と決まった。留学中に韓国留学生の口頭試問に同席したことがある。彼はふだんぺらぺらのドイツ語なのに本番であがってしまって簡単な質問にも十分答えられなかった。結果はようやくGut(良)であった。これがプレッシャーになった。「失敗したらどうする?」 口頭試問へ旅立つ飛行機の中でずっと発表原稿の暗記に追われた。本番数日前のゼミでの練習では質問役の学生が、予想もしない質問をしたためにうまく答えられなかった。「もう一歩!」
 本番はどうにかこうにか試問を終えて部屋の表に出た。皆はもうシャンパンを準備して待っていた。「sehr Gut(優秀)です」と発表された。「今日からドクターと名のってもいい。」と教授は言った。ほっとした。恩師が「涙が出た」と後日教えて下さったのは、この場面だった。わたしはもちろんそんなことは気がつかなかった。「ありがとうございました」と大きくお辞儀をした。シャンパンがうまかったのはいうまでもない。

(2)博士帽子
 このあと、リヤカーになりたての博士を乗せて街へパレードで繰り出すのがゼミの習慣であった。しかも個々の研究テーマに合わせたDoktor-hut(博士帽子)をかぶることになっている。そのデザインは工作のおじさんが当日まで本人に秘密に作っていた。私のDoktorhutのデザインは、実験器具のろ過装置を真ん中に立て、日独の旗がたなびくなかで研究している私の模型が立っていた。まさにこの博士論文で「国際交流の橋になる」ことを100%達成したと感じた。

(3)野村観光
 その後も日独への貢献は続いた。この大学の研究者と日本の建設省(当時)との技術交流が軌道に乗り、度々知っている人が日本を訪れた。教授もしょっちゅう日独ワークショップで来日した。その度に通訳やお世話をすることになった。あるとき、国際水質汚濁学会総会でドイツ人40人が京都に来ることになった。有名なイムホフ氏もその中にいた。ドイツでの習慣に習い、当然空港まで出迎えにいった。東京の本省役員は忙しいので、そこまで相手できる余裕のある人はいない。大阪に近い私は、またしても勝手にやるべきことをやった。そうしたら、代表が「テクニカルツアーのブッキングが取れていない。調整してくれ。」という。翌日国際会議のイベント会社と連絡を取ったが、40人のスケジュールが宙ぶらりんになっていることが判明した。彼らはフリーで自由行動するより何か見学を企画してくれという。観光会社と一人で交渉した。見学先の担当者は「正規の見学者しか聞いていない。通訳もいないから自分で準備しろ。ジュースのサービスもない。」と冷たい返事だった。了解。通訳ぐらい自分でする。ドイツ人の会議参加者全員を率いて、1日だけの野村観光の会社ができた。この際とばかり、職場の若者を通訳補助の名目で貸切バスに乗せた。皆は運賃タダ・授業料タダで1日中ドイツ語の勉強ができることになった。「突然のドイツ語でバス酔いよりもドイツ語に酔っ払ってしまった!」と仲間は後で笑った。

6 最後に
 以上思いつくままに書き綴った。一筋縄ではここまでたどり着かなかったことは、読んでわかっていただけたと思う。また、苦労しただけの結果も出せたと思う。この挑戦をけしかけてくれた恩師に感謝する一方、もっともっと答えていかなければとも思う。まさに国際交流は奥が深い。これを読んだ若者が「よし俺も」と一人でも思っていただければ幸いである。