弟子筋コラム  
隻眼先生の環境マンダラ(連載第15回)

  環境ビジネスの演出家

6月号では,環境プロデューサー論から入って,最後は演出の仕方を問題にした.だけどまだまだ私の説は机上の空論レベルを出ていない.同様に,推奨株の薗田綾子や米村洋一にしても,このていどの人数では「泰山を動かす」わけにはいくまい.かつて参院選後に「山は動いた」と表現した土井たか子の社会党は凋落してしまったではないか.ではどうする?
 今回の提案は,日本はもっと「panic entertainment」に力をいれてみよ,ということである.

Panic Entertainmentとは
 ひとつの理由は,約2ヶ月前に,20C. FOX映画“The Day after Tomorrow”を見たからである.Roland Emmerichひとりで原作・脚本・演出を皆やっていた.ここでは映画の筋を追わない.駄作だとする投書もあるが,私はそうは思わない.癖や習慣に従ったパニック局面での意思決定の危険さを,余すところなく描写しているのだ.
 映画封切り前に『日経新聞』(5月23日)は「温暖化が氷河期招く?」という記事で,映画の筋が単なる娯楽作品ではなく,IPCCの研究者もまだ地球モデルに入れていない部分―北極の氷の融解・海水の塩分濃度の低下・メキシコ湾流(暖流)北上の減退→欧州や北米でのsuper storm発生―が脚本には入っている,と解説した.私にはこの設定の確証の有無を評価できないが,モデル化も検証も人間の仕事だから,たとえ自然といえどもnaturalな現象ではない,見落としていた些事がcatastrophicな大変調の引き金になることは十分ありうるのである.
 アメリカ映画で私が見た他のPanic Entertainmentには,“猿の惑星”(1968)や人肉処理工場を扱った“Soylent Green”(1973)などがあった(ともにCharlton Heston主演).“The Day after・・・・”の評に,1997年の京都議定書を批准しないアメリカが,温暖化対策の別の道を探り始めたか?とあったように,「環境」という人類が初めて遭遇する難問の解決のためには,古い政治手段には見切りをつけるべきで,それこそが文明であろう.
 日本の「危機SF」で評判になったものには,小松左京『日本沈没』(光文社カッパノベルズ,1973),堺屋太一『油断』(文芸春秋,1978)があった.ともに映画化されたが,どちらにも若いカプルが登場する.高橋憲行『アマゾンを燃やせ』(二期出版,1992/世界一の債務国ブラジルが,先進諸国に対して1210億ドルの債務の帳消しを迫り,さもないとアマゾンの熱帯雨林に火をつけるぞ,という地球環境戦争)は映画化されていないが,ここでも日本の男女2人組が活躍して大団円に導く.したがって,日本では環境分野のpanic性を強調することは有効ではないのかもしれない.

アニメやマンガの効用を見直せ
 21年前に「住民意識と生活環境評価の計量化」という卒論を書いたYTV制作部の諏訪道彦は.いま「名探偵コナン」のプロデユーサーをしている.私はコナンを見る気はないので,諏訪の次の狙いは不明だが,彼が昔の卒論を思い出したら?とふと考えてみた.
 アニメとマンガが違うことは承知だが,双方とも情報量は文章よりかえって多いのである.「環境評価の計量化」は,研究報告や役所の仕事の看板などに使うと見栄えがするのは請合いである.でも,こういう報告を積み重ねて何がどれだけよくなったかを反省すると疑問符だらけ,私はこのような欺瞞的な社会に「名探偵」を放ちたいのだ.
 どういう人材が適役か.Panic Entertainmentにはたいてい学者がいる.日本のpanic SFもそうだ.私は別の例をあまり知らないが,鉄腕アトムが世に出た頃「お茶の水博士」のおかげで,大学にいる博士たちの権威が地に堕ちたという噂もあった.ここらで緊褌一番,大学の学者がアニメ型環境脚本の演出家になって,またはpanic映画の主演者としても,勝負に出ねばならない.
 かねてからその片鱗を示し始めたのが京大のHigh Moonであろう.今度入手した高月 紘『まんがで学ぶエコロジー』(昭和堂, 2004)では,どの1コマも深いヨミができる.例示したマンガ(省略/お客の前でこれが新品だと説明している店員の後のカーテンの陰には、次の型が山積みされている)にあるように,カーテンの陰で企業がやっていることを探偵に探らせればよい.多くの企業はカーテンを閉じるだろうが,何枚かをセッとにすれば謎が解けるはず,そして適宜動画にしていけばよい.
 全部をアニメにするのでなく,実写を組み合わせて成功した例が,宮崎 駿・高畑勲コンビの「柳川堀割物語」だろう.学者ではなかったが,後に広義の学識者になった柳川市役所の広松 伝(つたえ/故人)の堀割再生活動が主題である.婚礼舟や水天宮祭の舟舞台が点景としてうまく使われ,圧巻は「堀干し・藻刈・泥上げと漁獲」である.

B級学の時代へ
 6月号では安井 至のPRIUSのLCAを取り上げて,もっと「懐を深く!」という意味のことを書いた.その直後にさらに厳しい報告を読んだ.「捏造された「燃料電池」幻想―「脱石油」など夢のまた夢」(『選択』04年6月号)である.簡単にいうと,水素電池(発電装置)に投入する水素を得るための水の電気分解に電気が要る,ということで,他の例も引きながら「科学技術万能信仰」の弊害も説いているのである.A級学の終焉である.マンガ学はB級学に入るのだが,BはAより下だということではない.
 私は約20年前に,電気自動車で使う電力も火力で発電するならば,脱石油にも環境保全にもならない,という結論を得ていたので,太陽や風力発電以外のhybrid系には興味はない.
 それよりも,自動車産業はマンガのようなカーテンの奥で,本当は何をしているのか.炭素税には反対しているだろう.だからこの税金はいつも取り沙汰ばかり.新車価格が1年で半値にもなる中古車市場を固める一方,中国大陸に何億台もの車を走らせて日本に空中死神(大気汚染や酸性雨を表わす中国語)を降らせるつもりに違いない.
 トヨタは今期初めて1兆円を越す純利益を挙げ,全企業の純利合計も10兆円超だったという.しかしトヨタ1社で1割も占めているということの方が問題である.会長の奥田 碩は経団連のボスとして事あるごとに政治に口を出す.粗雑な詭弁と断定だけの小泉純一郎よりも性質(たち)が悪いぞ.懐は深くないと私はみている.

Free Producer木村政雄への期待
 ここにひとり,懐の深い人を私はみつけた.『吉本興業から学んだ「人間判断力」』(講談社,2002)の著者木村政雄である.木村が吉本の常務取締役を辞めた直後の肩書きはexecutive freeterだったが,いまはfree producerになっている.彼は,やすし・きよしの漫才コンビを育てた,吉本を全国展開させた,として評価されている.さらに,「群れるな」「何でも一所懸命にやる,はインチキ」「日本ではスポーツや観光の國際的演出力が不足」などが,重要な木村語録になっていた.
 木村の退職時とほぼ同時に,吉本興業が「この次は大学教授をマネージすることを計画中」と新聞発表したとき,「あっ,これは木村政雄のアイデアだ」と私はピンときた.プロ野球でFA権を得た選手で吉本にマネージさせている人を読者は知っているか.25年前に隻眼先生も似たことを考えていたそうで,一度は実践しかけたらしいが時期尚早で,足を引っ張られてばかりだったそうだ.
 木村がどのていど環境問題に興味をもってくれるかは定かでない.おそらくThe Day after Tomorrowは見ただろう,その品評会を大阪ででも開いてくれたら顔を出そう.
 従来通りのパターンで,教室では自説で講義をし,学会へは通説に多少<+α>する形で研究論文を発表し(4月25日付け『日経新聞』の佐和隆光のエッセイから引用),ということを続けていく限り,いくらいじくりまわしても大学も学会もよくならない.依然として,縦割り方式での「地球の分取り合戦」をしているにすぎないのである.

                 (流石 さざれ/評論家)