弟子筋コラム  
隻眼先生の環境マンダラ(連載第16回)

  世界的水不足が意味する危機

今回は環境や大学関連の「人気と実力」で纏めようと準備万端整えていたのだが,『選択』04年8月号の「対岸の火事ではない『世界の水不足』」を読んで,急に方針を変えた.副題は「水大国日本にも深刻な影響が」である。『選択』は環境や水問題にはあまりページを割かないので、これは一体何事と思ったのだ.私が見過ごしていたこともたくさんあった。前半は地球上の水資源の偏在の問題,後半は去年の「環境マンダラ」の3, 5月号にも書いたvirtual water(間接利用)の問題である.

中国が大消費国になる!
 資源の偏在は水だけに限らない.石油や希少金属などもしばしば戦争の原因にさえなる.ところが隣国の中国のことを私は見落としていた。石油ではもう始まっているし,食糧でも輸入国化しつつあるというのだ. 国内でも水と農業の南北偏在が大問題で, アメリカCalifornia州の南北(農業は南部,水資源は北部)とは反対である. 世界の環境派の反対を押し切って中国が長江の三峡ダム開発を強行した理由もここらにあるのだろう. 私のところにはJAのニュースレターが毎月来ているが, virtual waterには一切ふれておらず,もっぱらWTOを介した世界の農産物貿易や関税の話ばかりである.
 いま中国がどのていど牛肉消費国になっているかを私は知らない.肉食はまず鶏に始まり,次に豚から牛になるということをどこかで読んだ.その時の印象では,中国ではまだ牛肉用の飼料穀物のために農業用のvirtual waterを大量消費している,という印象はなかった.貧富の格差を残したままとはいえ,いずれ中国の食事情も牛肉化するに違いない.

Virtual Waterの提案者
 『選択』報告の中ほどに,virtual waterの提案はUniv. of London地理学部(Hydro-Politics)教授のTony Allanの1990年代初めの仕事だという紹介があった.ここで私は「エエーッ?」と叫び声を挙げた. もう今から25年以上も前の隻眼先生の提案だと私は思い込んでいたし,その後約10年余,関連研究の助手的立場で先生と協働した生々しい記憶があるからである.先生がどう見ているのか意見を聞いてみた.
 やはり多少怒っているようで,「『選択』へは通告しておくが,元はといえば、われわれ日本人の研究発表の仕方が悪いのだ.それに研究評価的な役割を担うべきメディアがないことも原因だろう」といっていた.新聞各紙の「書評欄」は週1度でかなり頻繁ともいえるが,書評者や書評新聞に本を送りつける習慣は多分ないだろう.「論壇時評」や「現代を読み解く」などは月1回で,しかも対象の選択は評者に任されている.学会誌の特集でも,今問題にしていることにじっくり取り組んだ例をほとんど見ない.要はみな忙しすぎるのだ.
 私は,Allanの著作をinternetで調べ、さらにlinkをとっていくと、東大生産技術研究所助教授の沖 大幹の解説が出てきた.沖のVirtual Water Tradeに関するの英文論文もAllanに基礎を置いていて,この論文は,2002年にDelftで開かれた第2回世界水フォーラムに提出されていた.世界水フォーラムのことは去年の「マンダラ」に書いたから繰り返さないが, 忘れてならないのは「先進国は牛肉を食うな」という男女の素裸軍団が乱入したことだ.
 先生がvirtual waterの提案を最初に書いたのは,「水需要を満たすのは誰か」(『週刊エコノミスト』79.07.03)である。ただしこの時の先生の着想は,農産物よりも工業製品のvirtual waterにあって,私は,日本の化学製品の部門別に工業用水使用量の計算を手伝わされ,上記論文の「日本は水も輸出している」の1行のために,工業用水統計を抱えて格闘した.私はすぐに「あっ,これは目的別消費税と同じだな」と気がついた.当時は,virtualという語はまだ使われておらず,indirect water use, water intensity of goods(財の水集約度)またはwater analysis(同時にwater pollution analysis)という呼び方をしていた.
 農業用水について先生は,「われわれはパンを通じてアメリカの水を使っている」とはっきり書いていたが,むしろ日本内部の問題として,農業用水利権が旧河川法の「みなし水利権」にあぐらをかいて,みずからの重要度を論理化する努力をサボっており,都市用水に徐々に蚕食されつつあることに警戒信号を出していた.こういう発想の基底には,「水道局」に代表される官業としての水政策そのものに問題があった.だから前記『エコノミスト』論文のタイトルは,水道局が傘下の庶民の水需要を満たすのではなく,生活者自身が各用水種別に応じて必要を満たすのだ,という読み取り方を暗示していた.だけど庶民は局に任せっ放し、時々局が失敗すると,『カラ梅雨のせいにしたがる行政』(副題)と責任転嫁をはかるのである.

責任転嫁の行く先:公営水事業の限界
 先生はその後和・英の関連論文10編以上を書き, 修士論文2編, 学位論文2編の指導もしたが, それ以外に追随者が出ないので約10年で研究をいったん止め, その総合成果は, 吉良竜夫編著『水資源の保全―琵琶湖流域をめぐる諸問題』(人文書院,87.08)の中の「水配分からみた地域連関」としてまとめられた. この10年間の苦労は想像以上で, 「必要dataがない」の一語につきた. 産業連関表の技法を使ったのだが, 産業連関表のない県すらあったし,ましてや, 産業と水質汚濁の連関はいっそうひどかった.
 先生の結論(滋賀県は開発途上の水資源県)への反対者もあった. 琵琶湖研究所のA・Mは, 滋賀県は工業生産額全国5位で, やっとNIESなみになったのだから, こういう結論には承服しかねるという. しかし事実は事実.総合開発計画と引き換えに工場誘致をしたのは必ずしも成功ではなかったのだ.例えば,滋賀県で生産した加工食品のvirtual 水の59%(実数約58,000t/日)は大阪府向けだが,大阪府→滋賀県では,わずか1.5%(実数約1,900t/日)にすぎない。大阪府が琵琶湖・淀川にもつ水利権は,当然大阪の水と約束してある.
 この研究ではもうひとつ,配分問題の双対問題を解き,水利権価格を操作することで上下流の衡平をはかる方法も提示されていて,これも世界初だったはずである.

水の自由化と商品化の危険性
 素裸の男女の騒動などを一般紙は報道しない. 『選択』報告の最後にあった水の商品化の議論は, さらに判断の難しいところだ。先生は民営化を視野に入れていたが, 商品化はあまり考えていなかった. すでに水道料の1000倍のbottle water産業は立ち上がっていたのに, 水道局は見向きもせず, ただ都市人口集団の集計値としての水需要を満たすことに汲々としていた. それを皮肉ったのが上掲『エコノミスト』論文だ. 国鉄最後の日は87年3月31日, 先生の「水道は国鉄化する」という意見が朝日新聞1page大に掲載されたのは, 81年11月9日, 取材に来たのが最近亡くなった政治記者石川真澄だった. つまり, 総括原価主義と独立採算制を金科玉条にしている水道官僚の固陋さを叱ったのだ. いまや節水機器が普及して水があまり売れなくなり, そのための値上げという症状は, 国鉄の末期的症状と同じである.
 ただひとり, 先生の一連の論文を読んでいた, 日本語に堪能な外国人がいた. Jean Esmain (ジャン・エスマン, フランスの銀行家, 当時はアラブ系銀行の東京支配人)である. 彼の考えは「貨幣の民俗学」(『中央公論』78.11)を読めばよくわかる. 貨幣とは物財と交換する手段でなく, 文化の刻印がなければいけないと説く. Esmainが先生を訪ねて来たのが79年の初め, 私も同席した. 彼は先生の「水の地域通貨構想」を見抜いていた.
 先生が旧厚生省のOBの誘いに応じ, 原案作成者にもなって, 和達清夫をheadにした水の行政改革を中曽根康弘行官庁長官や鈴木善幸首相に提言したのが81年7月, 縦割り水行政の統合と地域的分権化が主内容だった. でも政府は握り潰し, 某紙に至ってはベタ記事の中で,「なにっ?水も行革?」という見出しさえつけたのである. こういう傾向は今も連綿と続いている.
 『選択』報告にある危険性の指摘に, 水の商品化を推進しているIMFと世銀が挙っている. 最近Bush政権がNYのテロ危険度を1ランク上げ, IMFと世銀周辺を名指ししたことは, 前記の裸集団の突入を考察の枠内に入れれば, 多少わかり易くなるだろう.

                 (流石 さざれ/評論家)