弟子筋コラム  
隻眼先生の環境マンダラ(最終回)

  
     環境公文書館の構想

 体調の悪いせいもあろうが.どうも腹の虫が治まらない.Ohio州のある選挙区では有権者の登録数が638しかないのに,Bush票が4258もあった(Bush系のメーカによる電子投票機使用/『週刊金曜日』04.11.19),Ohioの20票が逆転すればKerryが新大統領になる.かくして,「無理が通れば道理が引っ込む」.

進むも地獄,引き返すも地獄
 まだまだあるぞ.奥 克彦・井ノ上正盛両外交官の殺害は米軍の誤射だという噂が消えない.相も変わらぬ小泉の詭弁(非戦闘地域の定義),橋本龍太郎・野中広務・青木幹雄が口裏を合わせて村岡兼造に責任をなすりつけ,社会保険庁の壮大な無駄使いは約200兆円の積み立て金がなくなるまで続きそう.そして最大の問題が核廃棄物の再処理計画である.世の自称環境派が「原発はCO2を出さない」と平気で言うのは全く噴飯モノである.
 『選択』は六ヶ所村の再処理運転開始に警報を出し続けている(「六ヶ所村再処理施設―皆が逃げ出す核燃料サイクル」『選択』04年10月号)のに,一般メディアはほとんど報道しない.フランスのラアーグ(LaHargue)やイギリスのセラフィールド(Sellafield)の地名(再処理工場のある村名)は,Internetでないと探索できない.両者とも周辺には白血病の子供が大勢いる.これは『選択』がいうように,「全工程で放射能が飛び散っている」からだ.日本の原子力委員たちは,全員が撤退を望んでいるはずだが,「いざ決定」という段取りになると,政府の方針を覆すことはできず,奈落の底へ落ちるしかない.Pu239の半減期は2.4万年,Pu244に至っては8千万年,この期間同じ日本語の安全保管マニュアルが通用するのだろうか.
 日本がもつPuの総量は,日本国内に5t,英仏に33t,これで核爆弾は4800発分というから,03年7月号の「隻眼先生」に書いたように,アメリカ支配にイライラしている連中が,自衛のための核武装を言い出すに違いない.帝京大のS・Tあたりが要注意人物だ.『選択』10月号では,再処理に続けて,あらゆる代替エネルギーの見込みのなさを強調し,結局は省エネしかないと説く.LEDという省電力電球も現れたが,Light Upの女王I・Mの意見も聞きたいところだ.

環境の看板に偽りはないか
 すでに何度か書いたと思うが,環境政策も「進むも退くも」の状態に近いはずだが,環境ビジネスはもう少しマシな立場にあるようだ.前者の場合は,環境税または炭素税の設定に合理的な論拠を見つけられないでいることが象徴である.もう10年近く前,IPCCの日本代表の一員だった森田恒幸(夭逝)は,国際公共経済学会で10%,20%程度ではなく,21世紀初めには温室効果ガスを半減し,なおもうしばらくCO2の増加を容認した上で,22世紀の初めに何とか現状に引き戻す可能性がある,と説いていた.こういう説と比較すると,国際政治場での認識も甘いものだし,さらに日本の経済分野での常識になっているらしい「排出権取引」が動きだすと,新手のderivativeも現れて増税か減税かの隘路に踏み込むだろう.
 後者(ビジネス)では,進路にも退路にもまだ余裕があると言ってよさそうだ.それは,トヨタが自動車製造の非環境配慮の要因に気づく時であり,リコーが社会環境本部(約50人)を独立させて新型収益組織をスタートさせる時であろう.『環境ビジネス』10月号は同社のCSR(corporate social responsibility)を高く評価していて,日本のAAグループを横断したISOやTUV(ドイツの全輸入品に課せられる技術基準)を越える新基準のリーダーという存在が想定できる.これは環境コンサルタントがISO14000の作成や環境報告書づくりしか仕事がなくなった,とボヤいている裏を読んでのことである.各企業が環境重役を置いたり,社長の代行もする美人の環境渉外係を置いたりした時代と比べると,まさに隔世の感がある.
 こういう設定と比べると,環境ビジネスに片足を掛けた研究は,どうも「右へ倣え」の風潮が強くて,あまり読む気が起きないのだ.例えば,「sustainable建築」という概念を示した書籍は,おそら10冊を下るまい.しかし建築設計家と住み手との役割は判然としすぎていて,かつてのcorporative houseのように,居住予定者が設計に参加したり,管理組織を作り出すといった意味での社会の作り変えを意図した環境システムの提案はあまりないのである.
 これは,エコロジー,持続性,循環型社会などのイメージが強すぎるせいかもしれない.いかにこれらの正当性を力説しても,所詮は他人が大状況的に言い出したもの,特に持続性は,UNEPでの途上国と先進国の激しい論争で生まれた妥協の産物だから,どこで誰が足払いをするかはわからない.所与の目的を信じる「目的合理性」は,無個性で均質な自分に満足する大衆の代名詞で,学者でも自分の専門に閉じこもって与えられた問題を解いても,問題そのものを発見しないのは大衆だという(山崎正和「名著に還る夏」『毎日』040818).この発言は,大衆の目線からなされていることが重要で,山崎はオルテガの「大衆の反逆」(1930)を例に挙げ,進んで困難と義務を負わないで,自己完成の努力もしない大衆社会の危機を指摘したのだ.オルテガは自動車社会の到来を予見し,自分は自動車生産に関与せず,文明の利器の享受だけに勤しむ大衆を「文明社会の野蛮人」と命名した.「目的合理型」の反対を「形態合理型」という.「下からの民主主義」ともいえるIT社会を創造しながら新しい問題を発見する型である.

環境ビジネス社会での記録の保存と公開
 形態合理的な観点で,大学や学会での研究論文を眺めると,私はほとんどが不合格だと思う.そのわけは,いかに大量の論文を積み上げても,その堆積の中での複合作用が一切起こらないからである.技術系では少なくとも技術史学者がいつも堆積を崩したり積み直したりせねばならぬ.単純な例では,脱ダム学では石川達三の『日陰の村』に出てくるO・Mの功罪を知らねばなるまい.
 いま大学では,産学連携のJVや独立法人化の話題が一杯だが,今度は文科省の厳しい意見が登場した.採択されたCOE(卓越した研究拠点)の成果への最初の評価である.もちろん文部科学役人が書いたのではない(『毎日』04.11.30).
 大阪市立大学の「都市文化学の創造」では中心教員が誰かがわかるので,計画と講評を読んでみた.新理論やモデルの提示がない,経費配分を見直せ・・・,阪大の「インターフェイスの人文学」では,国際会議などの外部交流に時間がとられすぎて,学内でのまとまりを欠く・・・,など,やはり人文や文化などでも「目的合理型」が幅を効かせているのでは? と思われる.
 そういうものがあるのかないのか私は知らないが,リコーの社環本に期待したような組織こそが,environmental archivesである.学生時代に“Engineering Archives”を解説してくれた教授もいたし,最近では加賀美幸子の解説つきで映像主体の「NHKアーカイヴス」もよい例であろう.
 ただし『環境Archives』というメディアさえ作ればよいというわけでもない.ここでは最近読んで印象深かった,作家とTVディレクターの共同作業を採りあげよう.
 実は,重松 清・渡辺 考『最後の言葉−戦場に残された24万字の届かなかった手紙』(講談社,04.07)をまだ入手してないので,重松の「戦場の言葉と向き合う旅」(『本』04.08) を引用する.なお,重松が作家,渡辺がNHKのディレクターである.日本兵の玉砕や民間人の集団自決を再検証するドキュメント作成のためアメリカ公文書館の資料が使われた.米軍は日本人たちが戦場に書き残した手紙をできるだけ収集しこれを英訳して、日本人のmentalityを理解する資料にしたのだ.みな届かぬことがわかっている両親,妻,子供への思いだったという.これらが57年後に再度日本語に訳し直され,宛名を頼りにできるだけ当人を探し出す苦労も重ねて脚本ができたという(on airは8月).「天皇陛下万歳」は全然なくて,「生きて虜囚の辱めを受けず」が手紙の束に貫かれていたという.

[あとがき]
私はこの2年間,NPO活動の現地取材や,『週刊金曜日』『選択』「TVdocument」などの混成で原稿を書いてきました.原典探索への私の忠告を握りつぶした『選択』は論外ですが,『金曜日』はル・モンド(35万部)にも時々引用されていて,少しずつ社会的archivesに近づいているようです.ページ数制限で,論旨の飛躍をかなりしました.これでいったん連載を打ち切ります.

                 (流石 さざれ/評論家)