弟子筋コラム  
隻眼先生の環境マンダラ(連載第4回)
     
     人間マンダラの読み方

流石君が風邪で寝込んだので,僕(隻眼)が彼の名前と合成したペンネームで稿を進める.
『自然と人間』03年1月号に,なだ いなだ(精神科医)を取材した「へそ曲がりのすすめ」が載った.要点は3つで,第1は「皆が右へ行けば私は左に」,第2は権力の象徴の「天皇」が各組織にいたこと,第3は「日本人のアイデンティティ=愛国主義=国家中毒」の弊害である.第1は僕がヨシトミの絵を買ったのと同じなので省略し,第2と3を軸にマンダラに言及する.

すっぽん天皇の功罪
なだのいう天皇は病院内のことだが,僕は大学や学界での経験を書く.戦後民主主義はまだ未熟であり,有権者層の違いもあったが,学長や学部長は一応選挙で選ばれていた.ところがいわゆる天皇が学長や学部長とは別にいて,天皇に相談せねば何事は決まらなかった.事前の相談なしに会議を開いても「ワシは聞いとらん」で一蹴されてしまったものである.名は秘すが,僕の学生時代には工学部に土木のI・Tと機械のN・G,2人の天皇がいることを,兄貴分の助手が教えてくれた.権力型の天皇の風貌は独特でやや右肩上がり,今のマスコミ界でいえば田原総一朗というところか.ひと目見て,あっあれがN天皇だ,とすぐわかった.Iの別名は「すっぽん天皇」,一度食らいついたら離さないという意味で,この天皇は霞ヶ関の人事まで動かしていた.
僕はIゼミ入りを強制され,将来の教授としての帝王学―無能教授を追放する規定づくりなど―も授けられた.戦後人材不足の大学では,こういう荒療治が必要だったのだ.単なる選挙で選ばれたり,またはノーベル賞受賞者が引張り出されるなど,最近の学長人事は安易すぎはしないか.
I天皇は40才代半ばで工学部長になり,その時は工学部の膨張の最盛期だったので,Iの力量に期待が集まった.しかし彼が68年に総長選に出馬したときは,候補が絞られていく段階ではずっと第1位だったのに, 決選では逆転され2位だった農学部のO・Tが過半数をとった.平時に天皇が総長になるのは御免だ,という消去法が作用したのである.
僕は天皇同士の鞘当てでたいへん困った経験もある.70年頃,日本学術会議の第5部長だったI天皇から,スイスのIIASA(Intl. Institute of Applied Systems Analysis)へ出向せよ,ついては学術会議会長の有澤広巳に連絡をとれと命令された.「参ったな」というのが実感だった.有澤は経済学界の天皇だったからだ.しかし命令は無視できない.アポを貰うべく電話をしたら「そんなことは聞いとらん!」という返事,Iの機嫌を損ねないように苦労した.

大学の学長と天皇の違い
文科省系の任意団体に「民主教育協会」(Institute of Democratic Education)があり,機関誌『IDE 現代の高等教育』の03年1-2月号(No.446)の特集が大学のトップマネジメントだった.その冒頭に前北大総長,現放送大学長の丹保憲仁が「学長に何ができるか」という論説を書いている.ところが学問分野にも序列があり,北大の衛生工学科は設立来46年の歴史があるのに,電気・機械・土木のような伝統はまだなく,学部の中では依然として最下層にあるといえる.その教授が学生部長,工学部長を経て総長になるのは,驚天動地だったかもしれない.彼の結論は,ずばり「学長には何もできない」である.僕も文部省の科研費の重点領域などでよく会っていたが,最近はほとんど業績が挙がっておらず,あからさまにいえば焼き直しが多かった.彼自身もそれを認めていて,研究と学長職が両立しない,だから「失われた10年だった」と述懐しているし,時々「悪戦中だ」という葉書をもらったことも覚えている.
学部での役職選びの標準形は,学生の相談にのる全学の委員会があって,紛争などの一旦緩急時には,学生部はblack chamberに早代わりし,学生動静の分析や対策立案の委員会になる.この委員の互選で部長が決まり,この委員や部長がしばしば学部長に選出された.平時なら,学部長になりたい人は大勢いて,根回しの電話がかかったり,時には対立候補を誹謗する怪文書が飛んできたりした.
僕は,大学紛争中に学部改革のblack chamber員を仰せつかり,他の3人と一緒に延々と議論して改革案を書いた.69−70年のことである.これが猛烈な風当たりを受け,「改革できるならやってみろ」といわんばかり,卒業制度の廃止,教員の職務を研究・教育・経営管理の3種に分離することを謳ったからである.最年長のT・Rから始まり,次がN・H(N天皇の息子)が学部長に当選し,いずれも1回の投票だけで過半数になった.次はお前だぞという下馬評が出始め,僕は大学を逃げ出した.
丹保に対して福島県立会津大学(コンピュータ理工学部のみ)学長の池上徹彦は,同じ『IDE』で,文部省の教授基準で○合になることは確実なのに,あえて大学経営者として就任したという.そして@リーダーシップ,A鋭い情報感覚,Bパーソナリティを掲げて事に当たったが,いつも前例に拘泥する結論になって失敗し,「現状では救世主はいない,日本にはgovernabilityが不足している」と嘆いている.
今は宮城県立大学長になっている野田一夫と一緒に,多摩大学を立ち上げたのが中村秀一郎(経営情報学部長)である.95年10月に僕は中村と対談し,ひじょうに驚いた.万一文部省が新大学を認めない場合には,集めた教員全員を雇うべく事前に研究所を野田・中村が設立し,背水の陣を敷いたというのだ.総合大学では有権者の多い医・工・農学部以外からは学長が出にくくなっている.独立行政法人になる大学で,権力型の天皇ではない経営者が求められているのは,日本社会全体の共通事項でもある.

当て職学長連の危険な選択
当て職を英語ではex−officioといい,学長または元学長が多くの肩書きを持つことだ.しかし本職に精励すれば兼職に目を向ける余裕はないはずで,丹保のいう通りである.
IDE会長の天城 勲は,元文部事務次官, 今は文科省の特別顧問で,もう20年以上も会長を続けているが,絶対に天皇ではない.機関誌には毎号巻頭言を書いて,しかもそれが「○○の現状と課題」という定型ではなく,れっきとした教育社会学者である.また趣味が振るっていてプロ級の指物師,一度TVで箪笥を1棹仕上げるのも見た.変な理屈だが,こういう人は天皇にはならない.
もう10年以上経過したが,関経連主宰の「地球環境関西フォーラム」が設立され,その下に100人委員会ができた.僕も委員になったが,共同委員長が京大・阪大総長と神大学長のまさに当て職,環境問題への無知をさらけ出した人もいたし,近畿圏の知事や京阪神の市長も当て職の委員なのだが,一度も会議に出席しなかった.最初は経団連の地球環境憲章を越える勢いだったのが,もうマンネリ化している.僕は制止を振り切って辞任してしまった.
 I天皇と総長を争ったO・Tは退職後の当て職がなく,着物着付け学院の院長をしていた.Iはこれを「みっともない」と罵り,自分が計画した関西学研都市の建設推進協議会の代表にOを据えた.79年に71才で早逝したIの葬儀委員長を買って出たOは,霊前で学研都市の完成を確約し,遂に当て職を完遂した.しかし,着物学院と学研都市なる超重荷(民営だが巨大ハコモノの集合)を背負うことと,いったいどちらがみっともないのだろうか.
 日本の政治は,憲法調査会,有事関連法案,教育基本法改正等々,ジリジリと右傾化にしつつある.教育基本法では民主教育は風前の灯火,日本ナショナリズムへの復帰が行間に滲んでいる.これと「新しい歴史教科書をつくる会」が連動し,その一環で,「基本法を見直す会」「教育改革有識者懇談会」の会長に西澤潤一が就いている.西澤は電子工学の権威で,前東北大学長としての評判も抜群だった.今は岩手県立大学長なのだが,西澤がどんな考えで上記の会長を勤めているのか理解に苦しむ.同じ発想で文科省が編集した『心のノート』を使って,文化庁長官の河合隼雄(元国際日本文化研究センター長/臨床心理学)が講義したそうだ.河合は苦笑していたが,これも当て職が一歩踏みはずした例に他ならない.

人間のネットワークもマンダラだ 
人間は周囲のマンダラを見渡して,Mr. Moronのように,アメリカ帝国主義かイスラム原理主義のどちらだ,と詰問したがる.なだが「田中耕一が典型だ」というように,俺は日本人だという肩の荷を感じさせないことが必要である.僕は長年のアンチ巨人派だが,松井ゴジラの言行には好感を持っている.ICHIROも同じだ.だがノリは違う.迷いに迷って,俺がBuffaloesを日本一にするのだという荷を背負ってやっと近鉄残留を決めたのは,つくる会や家族会と同じで,ある意味でみっともない.こういうheavy duty探しをしないことが,むしろ環境負荷を減らすのではないか. 

             (筆者:隻眼流 さざれ石)