弟子筋コラム  
隻眼先生の環境マンダラ(連載第8回)

       群れるな! 環境技術者

 粉飾決算は至る所にあって,いちいち眼を三角にしていたらキリがない.SARSの最初の感染者がもし日本で出ていたら,パニック回避という名目で情報隠しが起こったかもしれない.イラク復興支援でも保険業法改正でも,否定文を除外してまともに見せるのが政治のやり口だ.逆に「りそな銀行」の救済劇では,「繰り延べ税金資産」というわかりにくいルールを巡って,金融庁・銀行・監査法人(後盾が竹中平蔵と木村 剛)の確執が表沙汰になり,「りそな」をダメ銀行のゴミだめに,という案まであったという.隻眼先生はどんな観察をしていたのか.
「金融庁・銀行・監査法人の三竦みでは,最初は監査groupが板挟みになって自殺者が出たり,監査辞退があったりしました.「りそな」は金融庁頼みで,債務超過はないと強弁したがそれが通用しなくなり,メガバンク仲間からも疎外され,遂に落城したということでしょう.大本営発表のなれのはてと同じですよ.そこで,流石君が事前に仄めかしていた「環境工学教授協会」が,合成の誤謬(連載3回目参照)に気づかずに何かを頼りに群れているのではないか,という前提で考察してみましょう.結論的には,赤信号皆で渡れば・・・を止めることですな.」

改善は学会の機関誌から
 環境工学は本質的にはいったい何に群れているのでしょうか?「エッ?!と思うでしょうが, 僕の考えは,似たのが一杯ある学協会誌の特集欄ですよ.これは僕の独断ではありません.松山 巌(作家兼建築家)が, 同じことを軽妙なタッチで『日経』夕刊(5.14)に書いていました.対象は『建築雑誌』(建築学会の機関誌)で,特集記事を学会員でさえあまり読まない,冒頭の顔写真の批判(政党の機関紙か同病者の闘病体験記か,と辛辣),ほとんどの筆者が大学の先生で,皆「はじめに」「おわりに」と書く,狭い社会に閉じこもって群れているとこの珍妙さに気づかないというのです.僕が長年会員だった土木学会をやめたのも,元はといえば特集の内容で,まさに月1回編集委員たちが戯れているなと思わせたからです.東京市のダム役人小野基樹の業績を賛美したH・T(土木学会誌, 02年3月号)は,小野が石川達三の『日陰の村』で批判されたことを知らないらしい.つまり土木monumentに群れているのですよ.また折角,「土木と建築のunbivalency とcollaboration」という良いテーマで特集をしたのに,継続性や発展的な視角を見せずに1回きりで終わってしまう.読ませる工夫が足りないのですな.」
 環境工学教授協会(JAEEP)のNews Letterも同類ですか.ちょっと古いですが,01年4月のNo.6の中島重旗の寄稿「環境工学教育の虚像と実像」は,なかなかimpactがありました.(6)回目に隻眼先生が引用した梅原 猛のスーパー狂言「ムツゴロウ」を中島は観たらしく,「現代日本人のバカバカしさを風刺して20世紀の幕を閉じたい.共存の新世紀をいうなら他の動物から人間を見る視点がいる.ムツゴロウの気持ちになれ,堤防を開け干潟を返せ」という梅原の言葉を引用していました.他にも,遺伝子や歴史や住民参加論にも言及しながら,ハコモノ(monument)をやめよ,ということでした.
「そうでしたか.僕はこの協会のスタートのとき勧誘を断わったのに強引に入れられましてね.すぐに脱学会の趣旨の寄稿をしたのに何の反応もない.一度会員名簿に目を通したら,土木,水環境,廃棄物など似た学会の馴染みの名前ばかりで,以来読むのを止めました.何を目論んでいるのかイマイチはっきりしないですね.中島は僕の知己ですが,普通の大学の先生ではないですよ.民間や国内外の経験も豊富だし,群れない人ですね.元運輸省の第四港湾が水俣湾のヘドロの浚渫・埋立による水銀封じ込めの計画(1977〜90)をしたとき,下手をすると袋叩きにあうかもしれない委員長を引き受け,自分の反対意見も通しながら,土木学会の技術賞を得た経歴を持っています.本人はこれを自慢しないがね.」

「21世紀は環境の世紀」に安住するな
 「昔環境庁が地球環境元年と呼んだのがいつだったか覚えていますか.平成元年つまり1989年です.特段epoch-makingなことがあったわけではなくて,昭和から平成への切り替わりを利用したのですね.
ですから,sustainability(持続性)やthink globally, act locallyなどの流行語を金科玉条のように使うのも,こういう看板をかけた城塞の中で環境学者が群れている証拠ですよ.「はじめに」「おわりに」のワンパターンと変わるところはない.元京大学長で滋賀総研理事長だったS・Tがある会合の挨拶で,think globally, act locallyはオレが作ったと法螺を吹いたので僕はビックリ仰天,彼の直後に基調講演をした僕は全面否定をしました.またglobal化もダメです.反WTOの真似ではもちろんない,僕は71年に,これが先進国の収奪構造だという資源経済論の論文を書いています.地球の気候だって均一に変化するわけではないでしょう.流石君も群れをつくる例を挙げてみなさい.」
 20年ほど前に村上陽一郎の論文で,約100年前にたくさんできた学会の綱領のことを読みました.教会や貴族の庇護から独立した科学者たちが,厳格な綱領を作って専門家集団の社会的正当性を誇示するというような内容でした.そのうちの一つに「組織的懐疑主義」があって,要はこれが群れたらアカンでした.しかし今は、この主義を貫けば「群れから弾き出される」と村上が言っていたと思います.
「学会が群れつくりの拠点だというのはね,その延長上に大学も含まれる,ということです.ごく最近東北大の大学院が「環境科学」をおく,とTVが報じました.それだけならナンダ今頃!ですんだのに,その中に「金属材料分野」があるというのです.もちろん,金属材料が環境保全に不要ということはない.でも金属材料は東北大の得意分野で,その群れを環境に移植するというのが見え見えですよ.」
そういえば,私も同じことを実感さされた覚えがある.H大の金属系分野が「環境負荷低減のための新金属材料の創成」という研究をし,その最終報告会の基調講演を頼まれたのだ.私はリサイクルを含む社会金属学を提案したのだが,聴講者は皆自分の発表のための内職に没頭していて,私の講演に耳を傾けている様子は全くなかったのである.――で,先生,群れない研究の例はありますか?

ムツゴロウの立場にたった研究とは
 「いうは易く行うは難いのが事実です.TVA関連で,テリコダム流域の絶滅危険種だったスネールダータという小魚の保全のためUSEPAも一肌脱ぎ,ダム工事差止め訴訟の判決が78年にあり,原告勝訴になりました.当時でも現在でも,日本では動物は裁判の原告にはなれないという解釈が普通ですが,この裁判では,魚が原告の立場にいたのです.長良河口堰関連の裁判で,富栄養化の必然性を西条八束が証明したのに,裁判所はこれですら採用しないのと大違いですよ.その理由のひとつの見方として,西条がいかに湖沼学の権威であっても,立論がダータ的立場のものではなくて,科学者が自然観察をするのは当然という,ある意味での群れ思想が働いているのかもしれません.被告や裁判官の心情を揺り動かすには,学者もムツゴロウに成りきる訓練を自分に課さねばならないのだと思いますよ.」
ウーム,これはえらいことになった.ちょっとレトリックがうまい程度のモノ書きが評論家を名乗ってはならん,と先生は言っているようだ.
「本誌の今年3月号に江崎美枝子の「新しい道路計画に必要な手法」という論説が載っていました.江崎の属する「喜多見ポンポコ会議」という名前に覚えがあって,僕の注意を惹いたのです.要点は住民参加投票ゲームで,僕が(5)の終わりの方で合意形成法として挙げた「市民にrole game」を課すのとほとんど同じです.Roleとはその役になりきることを意味し,動物としてはタヌキしか登場していませんが,参加者が役人やトラックドライバにもなりきった,と結論しています.小動物が市民社会と交流する前線が,武蔵野の雑木林が開発されていくにつれ,どんどん西方に退行したという最初の報告が出たのは,品田 穣の『都市の自然史』(中公新書,1974)で,その後は中曽根政権時代のリゾート法(1987)の結果,銀行と建設会社のturn key projectが狸も蜻蛉も,あるいは釧路湿原の丹頂鶴も,日本人の脳裏から駆逐したのがbubbleだったのです.」
 先生,飛躍をすればこういうことでしょうか.国際捕鯨委員会で日本は,鯨を題材にprey, predator と漁業技術の関係を科学的に研究しているのだ,と主張しているようですが,例えば,Herman Melvilleの代表作『白鯨』(1951)では著者が鯨になりきっている.捕鯨禁止派はこういう文学思想を根拠にしているのだ,と.Gregory Peckの訃報で思い出したのです.
「正解です.僕が文学・環境学会に注目しているのも同じです.こういうジャンルに環境技術者が入っていかねばなりません.とっておきの新しい作品もあるので,来月も続けましょう.」      
 
                 (流石 さざれ/評論家)