弟子筋コラム  
隻眼先生の環境マンダラ(連載第9回)

       群れない研究のために

 隻眼先生が前号の(8)で言ったことを反芻すると,今日本中で大小様ざまな群れがそれぞれの枠組みの中で,前例に拘わって改革に抵抗していることに対する怒りだった.その矢が一番身近な環境技術に向けて放たれたのだ.最悪の群れは多分,公共事業の族議員だろう.だから,錦の御旗を掲げた「環境研究」が賊によって食い荒らされないようにすることが環境技術者にも求められるのだ.
先生はすでに何度か匂わしていたと思うが,環境を蚕食する橋渡しを経済学がするのではないか.経済学の群れ状況はどうなのかを聞いてみた.

環境経済学の功罪
「竹中平蔵が金融担当大臣になってから,実務家と学者の叩きあいが面白くなったね.ところが今までは,学者が月に600編も論文を書いても,また群れて提言をしても,現場は見向きもしなかった.このような群れ仕事が多くなったのは70年代の後半でね,ひとつの特徴は大型電子計算機が使えるようになり,経済要因を20ばかり変数にして, 20元連立1次方程式を解き,例えば公害規制と経済成長との両立を図るという方式のものでした.こういう作業に20人くらいの計量経済学者が名を連ねていました.この傾向を鋭く批判していたのが杉岡碩夫でね,僕が一匹狼の方に入れていた名古屋大の飯田経夫が75年に「大店法」の規制をもっと緩めよという10人組に加わったばかりに,杉岡は「荒野を駆けめぐる狼が豚の群れに・・・・」と激しく叱ったのです.飯田はその後志を改めたか,京都にできた日本国際文化研究センターに転出しましたがね.」
 月600 編とは驚きだ.年に7200,今なら優に1万を越えているぞ.一人ひとりは狼のつもりでも、実務家は豚の群れとみなすのだろう.どの大学にも必ず経済学部があって,黒板経済学に安住している教授が多すぎるのだ.先生はさらにいう.
「僕には整然とした説明はできませんが,経済学の歴史は約200年で,人文社会系の中では最初に科学の体裁を整えたとされています.科学と計量経済学と計算機をつなぐと、納得がいくでしょう.今先端に立たされているのが環境経済学で,この重責を担わされているのがU・Kですね.多くの出版社が彼に本を書かしていますが,酷評をすると新しい群れの養成をしているようなもの,その群れの名前が「炭素税と排出権取引」です.この理論は学者が考えたものではなく,もう20年以上前になるかな,アメリカの牧場が隣の工場の煙害を受け,工場は牧場を買収して費用・便益を内部化した形で煙の排出量を決めたという歴史が原点なのです.ところが排出権取引市場は金融派生商品を生み出すし,CO2に無関係なおカネが動くから,自然保護にコストを支払うことにはなりにくいのです.僕が80年代に始めた環境経済学の講義では最初から貨幣経済を除外し,実物経済―inkind economy―を志向しました.ここに間接税の原理が隠れているのだけれど,いまや消費税は増税の手段に成り下がったわねー.税調は政府の完全な御用委員会ですよ.」
 そういえば先生,『ノーベル経済学者の大罪』(筑摩書房, 02.10)という本が出ていますね.書評を『計画行政』(03.6)で読みました.要約すると,知的に厳密な数学的証明は経済学の課題ではない,ということでした.「その通りです.ただ肩の凝りそうな本ですね.数学的だけども役に立つのは,Wassily Leontiefの産業連関分析(73年受賞)だけでしょう.ただし連関が貨幣単位で表現されるかぎり,どこを通ってきたカネが環境に悪事を働くのかはわからない.どうしても実物経済にせねばならないのです.経済学は理想的経済人を前提にしていて,ヤミ金融の利息で生死の瀬戸際にいる人など眼中にないよねー.つまり"なりきる"方法が問題なのです.」

贈与の経済学と環境文学
 「流石君のライターとしての素養に期待して,僕のヒントを上げましょう.連載の(6)で引用した『ダイオキシン』の書評のちょうど裏側にね,中沢新一『愛と経済のロゴス』(講談社, 03.1)に対する中村達也のこれぞ書評中の書評といえるのがありました.ちょっと長くなるが,数量経済学を揶揄したジョークが載っていたので紹介しましょう.暗夜に街灯の周りをうろついている酔っ払いに友人が訊く.「何してるんだ」「鍵を探してるのさ」「この辺に落としたのか」「違う,あっちの暗いあたりだ」「じゃあ,なぜあっちを探さんのだ」「明るい所の方が探しやすいからさ」.この揶揄は僕が,環境問題では取り組みやすい研究に群れている,と言ったのと同じことで,中沢は,信頼・友情・愛欲・威信などの<何か>の増殖(つまり剰余価値)を扱う贈与経済学の必要を説いたのだ,と中村は言っています.地球への最大の贈与物は太陽エネルギーなのですが,経済学は必ず太陽を除外して,いわば機械的生産性の増殖だけに夢中になっている.これが街灯の下なのよ.」
 そうだ,思い出した.経済学の始祖といわれたAdam Smithは,生産とは人間が太陽と土地と並んで働くこと,と言った.ところが弟子たちがSmithを批判的に継承する過程で,自然と人間の間の機械的生産力を過大評価したのだった.
「その通りですが,中沢のいう<何か>を科学に求めることは無理でしょう.僕が注目しているのが文学で,医事の立川昭二,江戸技術の石川英輔らの多くの作品が出ています.環境技術者はこれらを素通りできません.石川達三の『日陰の村』を忘れて脱ダムをがなりたてるのも同じです.92年にアメリカで,94年に日本で文学・環境学会が発足し,すでに96年と今年の2回日米シンポが開かれて,アメリカのHenry Thoreau, Rachel Carsonや鴨 長明,日野啓三,石牟礼道子,加藤幸子,池澤夏樹らの名が挙がっています.Carsonの『沈黙の春』は科学書ではないのですよ.」   
 「加藤は日本野鳥の会の理事で,彼女の『翼をもった女』に文芸評論的な読後感を送った返礼に僕は『ジーンとともに』(新潮社,99.2)を頂戴しました.ニジドリの雛が紫色の楕円形の中から外界へ出て再び卵を産むまでの一生を,加藤が鳥になりきって書いたもので,僕は最初Jeanが渡りのleaderの名かと思っていたら,姿は見えないが主役に宿っているgeneつまり遺伝子でした.ジーンが「飛ぶのよ,上へ・・・」と囁くシーンなどは[感動]×[迫力]で一杯でした.加藤のモチーフは,鳥が地球を眺めるといかに異世界なのか,ジーンが答えてくれない時は,体内時計を逆転させて4代前までの母なる鳥の記憶が辿れるなど,実に驚異の世界です.これ以上の引用をしませんが,ぜひ両眼をあけて読んでほしいです.」

実生活にハイテクを埋め込む方法
 隻眼先生の言い分の核心はどこにあるのか.環境技術者に文学的素養が欠落しているのか? 弱者や自然への心遣いが足りないのか? それとも今次第に声が大きくなってきた「文理融合」なのか?  
「流石君の指摘はみな重要ですが,プラス豊な想像力ですよ.それらがバランスよくマンダラ的構図になっていることです.僕が推奨する例をひとつ紹介しましょう.加賀昭和「カトマンズ峡谷の大気環境解析」(『テクノネット』No.519, 03.1)です.題目だけ見ると何か物々しくて,文学が直接関与しているとも思えませんが,加賀らが過去10数年にわたって開発してきた大気環境の分析技術を途上国に移植するにあたっての目配りが実によいのです.現地の汚染状況の詳細は省くとして,研究の中心を日本に来た留学生に任せているが加賀が必ず同行している,SO2, NO2, TSPなどのサンプリングを現地の技術レベルに合わせいる,都市の熱放射と夕立の関係や,盆地を囲む山の頂きが見えるか否かの視程をcomputer simulation化している(将来に高層ビルが建てば昔のview pointが無意味になる),汚染のメカニズムを解りやすくするために水槽模型の可視化で実感できるようにしている,などが実にうまくバランスしているのです.」
 同じ東アジアからの留学生でも,土木系を希望する者は日本の最先端技術をマスターし,故国に帰ってひと旗あげるかまた政府の高官になるか,それはどちらでもいいけれど,結局は日本企業の手先になってしまう例が多いと聞いています,これとは大違いですね.
「ええ,似たことは国内でも起こっていますよ.いま気象予報士の希望者は年間約6000人,国家試験の合格者はわずか2%,それでも年間120人の気象casterの働き口があるわけではないですね.各TV局にはそれぞれ専属の予報士がいますが,どこの局でも気象庁発の同じデータで喋っていますね.普通のアナウンサーにできないはずはないです.加賀のような指導者が実生活分野にも目配りをし,ITを利用したメソ〜ミクロスケールの気象ソフトを売り出して,学校の百葉箱のデータも利用して,生活者自身がSOHO(small office, home office)を開けば,予報士の活動分野はもっと広がりますよ.」   
                 (流石 さざれ/評論家)