末石月報 忘れ難き日々−わが闘争の記憶と記録  

はしがき


「わが闘争」とは、ヒットラーの真似ではない。わたしのこれまでの生涯を振り返ってみると、時には歯を食いしばって耐えた、という記憶も多く、これらも含めて広い意味では「闘争」だったと思えるのである。特に後半生では、まわりの同僚たちにはあまり気づかれず、また評価もされていないが、権力との対峙が多くなってきた。わたしにとっては、ある特定の政治家の信条が、90%もの国民に支持されるなどの事態ほど気持ち悪いことはない。今は、どこから攻めればよいのか苦慮しているところだが、「機能体」としてよりもむしろ仲良しクラブの「共同体」(養老孟司「時代の風−私の構造改革−」『毎日新聞』01年8月19日)の色が濃い大学でも、大部分は18才の学生時代から大学しか知らない教員たちが、遠山(文科相)試案にガタガタいっている有様は、一般の人の目にはまったく入らないだろう。
 以下の記録は、年代順に記述してはいるが、種類別の闘争記だと理解頂きたい。

第1章 病魔との格闘から得たもの

 わたしは生まれながらの虚弱児だったらしく、小学校一年と二年の時には、二度も疫痢にかかって生死の境をさまよったらしい。
 胃腸が少しは丈夫になった四年生くらいから、別の心配が始まった。わたしは二年の時に、すでにツベルクリン検査で陽転していて、時々カラ咳が出るし、頭がよくても青白い顔の青年は、二十才くらいで結核で死ぬらしい、結核菌は空気伝染するという知識ももっていた。わたしの家は東海道本線東灘駅(貨物専用の大操車場)の北側すぐにあって、機関車や貨車が行ったり来たりするのをボンヤリ眺めているのも楽しかった。しかし石炭の粉塵を多量に吸っていることを自覚もしていた。こういう具合だったから、わたしは喧嘩も弱くて近所のガキ大将が率いる集団にはいつも苛められたし、運動神経も鈍くて、三年で担任のY・K先生には「末石はボールが顔にあたるまで気づかない」とまで酷評された。
 わたしはこの先生が嫌いだった。四年の時、各学級代表による国語教科書の朗読会があり、たしかに一番上手だった生徒を「北澤(静子)さんは心で読みました。末石君は口で読みました」と宣わった。何という評価の仕方か、わたしはおおいに傷つけられたのだ。
 閑話休題。そこで父と母が相談したらしい、小学校四年の時に剣道部が創設され、高価な防具や竹刀を買ってくれて、入部させられた。練習は、椅子を隅に寄せた講堂で週三回くらいあったと記憶する。五・六年担任の畑 實先生の指導宜しきを得て、わたしの運動能力も格段に進歩し、五段の跳び箱も軽々とクリアーできるようになった。休み時間にクラスで集団ゲームをする時には、いつもリーダーになる奴が、わたしを一番に指名するようにもなった。しかし、胸の病は徐々に進行していたようである。六年の時、肺のレントゲン直接撮影が必要になったのは、わたしと女生徒で一番だったH・Hさんの二人だけ、彼女は東灘駅の南側に住んでいた。畑先生の引率でこの検診にでかけるとき、六年男子のほぼ全員が窓から首を出して囃したてた。結果は「要注意」というところだった。
 当時兵庫県の中学の学区制はそう厳格ではなく、神戸一中と二中の学区は重なっていたと思う。でも進学は小学校で自主規制していたようである。わたしの時の一中の志願倍率は約1.2倍、入試は口頭試問と体操と身体検査だけ、内申書なんてことはまったく意識しなく、無事合格した。一中は、小学校へ行く坂道をさらに二倍くらい延ばした摩耶山の麓にあって、この徒歩通学もかなりの鍛錬になっただろう。
 わたしは小学校時代から、完全ふりがな付きの朝日新聞を隅から隅まで読んでいて、岩田豊雄(獅子文六)の連載小説「海軍」(真珠湾攻撃の九軍神が主人公)の影響と猛烈な軍国主義者の畑先生の薫陶(?)で、どうせ結核で死ぬなら特攻隊でもいいではないかとか、うまくいけば、インドネシアあたりの海軍外交武官になって、宣撫の仕事ができたらな、と考えるようになっていた。一中校長の池田多助先生からは修身の授業を受けたが、イギリスの有名校イートン出身の彼が、毎回必ず「鬼畜米英」と板書したし、クラス担任の英語の亀井萬三郎先生もアメリカで苦学してきたというのに、「ヤンキー」の悪口を連発しながら、わたしたちには英語の重要さを叩きこんだ。
 小学校時代の剣道部の先輩に誘われて、わたしは当然のように剣道部員になった。校舎の裏に立派な剣道場と柔道場が並んでいて、竹刀と着衣以外の防具は貸与してもらえた。同級の部員は20人くらいいた。練習は毎日放課後正味二時間、しかしこれは剣道の枠を越えていて、小休止中の四・五年生に礼をして教えを乞うのだが、たまには体の正面を空けて「面」を打ち込ませてもらえることもあったが、実状は完全な格闘技、体格的にはるかに勝る先輩に足払いを掛けられて馬乗りになられ、胴の上縁で首を締め上げられてもすぐに「参った」とは言えず、まさに我慢に我慢、学年としての態度が悪いと言ってはキツイ兎跳びを何周も命じられた。こういう状況は学校全体としても日常茶飯で、スパルタ教育の面目躍如。でも今回の目的は軍国教育の記録ではないので、興味をお持ちなら、妹尾河童の『少年H』で描写された神戸二中の様子から想像願いたい。
 こういう鍛錬を経ても、肺は必ずしもよくならず、一年の後半からは、体操の時間に見学を命じられるようになった。この年、練習台にと陸軍幼年学校を受験した。身体検査では素っ裸にされて、睾丸が二つあるかどうか、前屈みで肛門まで覗かれる、というシロモノで、これらは問題なくパスしたが、血沈が30ミリを越えていて、叱られながら「合格」を頂戴するという変な思いをした。ただし後日の学科試験には落第してしまった。翌二年の時には、海軍兵学校(正規には中卒資格で受験する)が予科制度を創設し、中学二・三年生に受験資格ができた。いわゆる促成教育の始まりである。軍の学校を受験することには、父も母も全然反対もしなかったが、激励もしてくれなかった。誰が第一期の予科兵を受験したかわからなかったが、合格者は高橋和巳君一人、わたしは身体検査不合格で学科試験を受けられなかった。原因は胸以外には考えられなかった。
 中三へ進学したのが四五年だから、敗戦の年である。この年明けの頃には、入学時に300人いた同級生は、疎開などで半数くらいになっていた。二年生の50人だけの特別クラスが急遽編成され、英語と数学だけの集中授業が始まった。わたしもこの一員になったが、残りの生徒と上級生の全員は軍需工場への動員という異常事態になっていた。一年の時は全学年で十位ていどの席次だったわたしも、こういう状況のおかげ(?)で席次が二〜三位に迫り上がり、兵学校志望者の中ではトップになった。海軍自体も事態は切迫していて、この年の予科兵は学科試験も身体検査もなし、兵庫県の推薦だけでOK、ということで、一中のわたしが候補者の最至近距離にいた。しかし秋の入学時までに戦争に敗れてしまったことはいうまでもない。
 余談だが、一中の剣道部は対外試合や段位の取得を禁止していた。上級生がいなくなったため部活も消滅したが、わたしを含め二年部員五人だけが計らって、武徳殿へ行って段位試験を受け、全員が難なく合格した。いわばポツダム初段である。ただし免許状は焼けてしまって、証拠物件は何もない。また戦後は武道部が駐留軍に禁止され、わたしはまた誘われるままにバレーボール部に入った。この仲間には、現旭硝子会長の瀬谷博道君もいた。柔道部にいた小松 實(左京)君は、ラグビー部に転向した。
 こうした曲折を経て病魔から逃れたわたしの20才頃の体格は、身長172センチ、体重55キロ、胴回り55センチというスレンダーさながら、体調は徐々に頑健だといえる状態を獲得していった。

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