末石月報 忘れ難き日々−わが闘争の記憶と記録  

第2章  空襲の悪夢から醒めた軍国少年の末路

 当時のわが家族の状況は、神戸市電気局の運輸課長(市電)をしていた父が週に一度くらいしか帰ってこず、姉は京都の女専から三菱航空機に動員中、妹は集団疎開で備中高梁の寺にいた。だから留守役は母とわたしだけだった。この二人がどこかへ疎開するかは話題にもならず、父は庭に三立米ほどの土を掘って、防空壕らしきものを作ってくれていた。
 その頃一中の特別クラスで、徒歩通学時間の調査があった。息せききって急坂を登っても40分かかるのに、サバを読んで30分と答えたばかりに、空襲警報発令時の学校警備要員に指名された。夜間でも警戒警報が出ればすぐ駆けつけろ、というのである。生徒がほとんどいない校舎には、高射砲部隊というふれこみの陸軍部隊が駐屯していた。彼らは毎日ツルハシやスコップを担いで山の方へ行進していったが、据えつけられるべき高射砲を見たことはなかった。
 警戒警報が出て、「敵機の編隊が紀伊水道を北上中」と、ラヂオが頻繁に放送するようになった。そのつどわたしは母ひとりを家に残して学校へかけつけたが、要員が顔を揃えたことはなく、学校にも防火の用具はなくて、警備の指揮命令系統もあいまい、特別に何もすることがなかった。でもひと晩に三度も急坂を往復することもあり、制服とゲートルを着けたまま寝るようになった。B29の大空襲が大阪を襲ったのは3月10日、海すら見えないわが家からでも東の空が真っ赤になっているのが望めた。次は神戸だ、ということを誰いうとなく覚悟した。3月17日の払暁にこれが現実となった。
 この日の深夜、わたしは虫の知らせもあって、空襲警報が出ても学校へは行かなかった。B29の爆音とともに曳光弾が夜空を染め、はなはだ不景気な高射砲の炸裂音の中、やがて西の空に「火の玉のすだれ」がゆっくりと降下して、多分神戸の中央部は大火災になった。95年の神戸・淡路大震災の火災はTVが空撮したが、あのていどの分散火災でなかったことは明白である。空襲警報が解除されたので、やれやれ今夜は免れたかと安堵して、母といっしょに西の空を眺めていた時、突如頭上で大きな火の玉が炸裂し、その瞬間にあたり一面に直径10センチ長さ一米ほどの焼夷弾が火を噴いた。できれば防空壕の中から何かを持ち出そうと思って家の中に駆けこんだが、屋根瓦を貫いた焼夷弾が六畳間で三本の火を噴いていて、すぐにすべてを諦めた。ただ、横から見た焼夷弾の落下速度がひじょうにゆっくりしていたのに、なぜ真上からはこんなに速いのか、今でもこの疑問が頭にこびりついている。「火の玉のすだれ」の模様は、野坂昭如原作、高畑 勲制作のアニメ「火垂るの墓」にもはっきりと再現されている。
 誰も退避の指揮をする人はいなかったが、近所の人たちは皆黙ったまま、少し東の西郷川の方向へ急いだ。その途中で、昔わたしをいじめたガキ大将の家が猛炎に包まれているのも見えた。人びとの足は申しあわせたように、東灘操車場の地下の川ぞいにある長いトンネルに向いた。その途中、母は肱を曲げた右手に握り飯をいっぱい詰めた重箱を下げていたのだが、弾片が重箱を直撃して中味が散乱した。もし十センチずれていたら、母の右手首または私の頭がやられたに違いない。煉瓦のアーチで川の部分を含め幅四米ほどのトンネルはもうほぼ満員、皆相変わらずものを言わず、朝まで立ちつくした。もしどちらかの入口から煙が吹き込んだら窒息死だな、とは思ったが、別行動を起こすこと自体が危険だという雰囲気だった。夜が明けて外に出ると真っ黒な雨が降っていた。行く先のあてはなかったが、真北の天城通の叔父の家は焼けておらず、ここに二カ月ほど居候をした。
 この頃、市内では借家、売家を含めて空き家はかなりあって、不動産屋を通さずともどこからか情報は入ってきて、天城通の北の福住通(小学校の所在地)を越えた上野通に新建ちに近い二階建てが見つかった。ここからは大阪湾が見渡せて、家具は何もなかったけれど、しばらくの間ウキウキとして暮らせた。しかしそれも束の間、6月5日の午前、爆弾を中心とした二回目の大空襲となる。一中へは五分とかからないので、すぐに登校し、池田校長の警護役を仰せつかって、数十人の教員・生徒とともに、裏山の防空壕行きを命じられた。立派な横穴壕ができていて、材木の支保工も後年学んだトンネル施工法と同じだった。なるほど、高射砲部隊は毎日この壕を掘っていたのだな、と理解できたが、これまで市民にこの情報が公開されたことはまったくなかった。校長だけは奥まったスペースで椅子にかけていたが、わたしはその横に立ったまま、ひとり持参した昼弁当を食べた。その時の弁当の中味を今でもはっきりと覚えている。
 警報解除後の帰路、濡れ布団を頭からかぶってひとりでトボトボと歩いている母を目撃し、どこへ避難していたのだろうと、思わず涙が出た。帰宅(?)してわかったのは、周囲は無事だったのに、わが家と隣家だけが焼け落ちていて、隣家の陸軍中尉宅に焼夷弾が一発落ちたのに、家中鍵がかかっていて、消火のしようがなかったのだという。さいわい反対側の隣家が知人の鈴木信五郎氏(神戸商大のコレポンの先生)宅で、ここに母と二人だけ一月ほど居候になった。父は相変わらず帰って来ず、大量の市電車輌を焼失した責任に悩んでいたようだ。
 七月初め頃、上野通からさらに坂を登って一中とほとんど同じ標高にある城下通の森 蓊(しげる/息子が一中の三年先輩)さん宅が疎開するのでと、誘いがかかった。38年の水害の堆積土砂の上に建った安普請だったが、今はもう雨露さえ凌げればよい、という感じだった。先行きの人生目標があろうはずはなく、空襲警報が出ても避難をする意欲も失せ、学校への往復でも頭の中はまったく空白、ほとんど人通りもない真夏の炎天の道でも、暑さも感じなかった。ある日「俺はいったい何をしているのだろう、そうだ、もう実際は死んでいるに違いない、ただ、あらゆる神経回路が麻痺していて、現実の知覚が何日分か遅延しているだけだ」と納得した。ほっぺたを抓るとたしかに痛い、しかしこれも五日前に抓った痛さを今感じだのだ、というわけである。この知覚遅延モデルが22年後に突然短絡を起こし、末石の「廃棄物めがね」の理論になった(詳しくは、拙著『都市環境の蘇生』中公新書、1975年)。始めて空から見た大阪のきたない町並みの数十年後の姿が、廃棄物の集積に見えたのである。「末路」を見出しにしたのは、わたしはその後いつも世の中を斜にみるへそ曲がりになったことを意味する。
 この城下通の住処にわたしは、16才で京都に下宿するまでと、大学院時代、大阪市役所時代を含め、通算約七年住むことになった。

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