末石月報 忘れ難き日々−わが闘争の記憶と記録  

第3章 約束の不履行は許せない−−米500キロの報復

 軍国主義が突然民主主義に変わっても、わたしは特別の感慨もなく、悪くいえば、あとはもう余生だというような気持ちももっていた。学年全体の成績で年度ごとの組長・副組長が指名で決まっていたのが、にわかに選挙になってわたしは副組長になった。でもクラスで何をすべきかのアイデアすらなかった。アメリカの放出資料で『タイム』や『コスモポリタン』などがどこからか贈られてきて、級友はわれ先に群がったが、わたしは指さえふれなかった。だから中学四年を終わる頃、三高を受験するかと言い出したのは父母だった。母が担任の館上(たちがみ)侃一先生を訪ねて、内申書を書いてやってくれと頼んだところ、合格は無理だから書かんと宣言され、それならばと、母はコッペパンを二個買って持参したところOKが出た。これは、戦後の食糧事情の厳しさを示す逸話でもある。
 わたしは本当は文系志望だったのだが、それでは食えまいということで理科を志望した。ちなみに理科の倍率は七倍、文科は八倍だった。受験勉強をした覚えはない。見出しの一件も含む三高時代の行動記録は、本誌の拙稿「三高共済会食堂部始末記」(『千里眼』第22号、1988年)に詳しく述べたので、ここでは要点だけを書き残す。
 京都に下宿を始めた16才(47年)の九月、神戸一中からいっしょに三高へ来た浅野洋一郎に誘われて、何となく「三高共済会」の委員になり、食堂部を任された。ここで先輩から複式簿記を教わり、約一年半、学生食堂の運営を担当した。食堂の賄いは佐伯彦弘(36才)・千恵(33才)夫妻に一任してあって、わたしは登録学生の米穀通帳を全部預かっていて、休暇中の米の配給も食堂部に入れるようにしてあって、多少欠配があってもなんとか食事の提供に事欠くようなことはなかった。ただし、一日三食の食費は7円で、朝食はスイトンだけのことがある代わりに、昼食を二食分食べてもよいようにしていたので、朝食を抜いた学生は昼食時には配膳窓口で「二発」と言って食券を二枚出すのが得だ、という慣習ができていた。
 食券の売り上げ金から食材の仕込み額や給与などを差し引いた金額が、毎日事務所に詰めているわたしのところへ届けられ、わたしはこれを翌日に第一銀行に預ける、というのが日課であった。月に一度、全学生の米穀通帳を各住所の区役所に持参して検印を受けねばならず、この日は授業に出ることができなかった。ただ佐伯氏は賭麻雀に凝っていたようで、共済会全体としての評判はあまりよくなかった。ただ、麻雀荘の場所は三高の近くにあって、主人の橋本敏一氏の本業は「橋本工務店」、食堂の造作なども手伝ってくれていたので、わたしも次第に昵懇になり、大学に入ってからも、この雀荘に居続ける級友がいて、ずっとクラス総代だったわたしが、授業に出てこない学生の動向を押さえるのにも役だった。賭金のカタらしいスクーターが佐伯氏のところを出たり入ったりしていたが、橋本氏の情報からは、食堂の運営資金が横流しされている形跡はなかった。
 もう一日7円ではやれん、20円にしてほしい、という懇請がわたしに来たのは翌48年の夏休み前、一挙に三倍というのはどうも・・・・だが、学制改革で登録学生数の減少もあったので、共済会全委員の了承を得て値上げに踏みきることにし、登録者の了承をとる仕事は全部わたしに一任となった。その説明会でわたしは、経営状況を丁寧に説明し、異論はまったく出なかった。そして明けて49年3月、50年度の三高生はわれわれ三年だけになるので、共済会そのものを解散し、食堂部の什器、預金などは京大生協の新規の西部食堂に移管ということが決まった。この賄い主任に佐伯氏を雇うという京大側の条件で、彼には共済会食堂部から退職金6万円を支払った。
 その直後の四月、京大生協は大きな違約をした。佐伯氏は三高食堂に付属の六畳一間に家族五人で住んでいたのだが、ここを退去する必要上、退職金の大部分をはたいて下鴨西半木町(府立大学正門前)に家を買っていた。自分は京大食堂で働いて、千恵さんには府大生相手の商売をさす積もりだったようだ。ところが、待てど暮らせど、出勤要請がない、現に全然別人が就任していた。その代わり(?)、三高生の資格のまま、わたしに京大生協食堂部の委員になれ、という。これは佐伯氏を嫌った取引だな、ということはすぐわかったし、狸親父と呼ばれていた生協理事長の顔がすぐに浮かんだ。佐伯氏は憤懣やる方ない口調で20才年下のわたしに、なんとかしてほしいと頼んできた。
 わたしにいったいどんな責任があるのか知らないが、この時わたしは戦後初めてかなりの怒りとともに、なんとかせねばと奮いたった。佐伯氏の要求を尋ねると、米1トンくらいで辛抱する、という。これは彼がわたしの生協委員としての立場を読んでのことに違いなかった。よーしわかった、と請け負うわけにはいかなかったが、悪いようにはせん、ちょっと待ってくれと答えた。わたしに成算があったわけでもない。しかし案外早くその機会がやってきた。先を急ごう。
 米500キロの横領は、たとえ露見しても52年も前のことだから、もうとっくに時効になっている。わたしは、京大食堂への米500キロの特別配給の通知状を押さえたのである。しかも無料である。日時は指定されていたが、通知状をもって百万遍の寺まで取りに来い、とあった。ことによると、三高でも一日7円の頃にはこういうことが時々あったのかも知れないな、と思えた。事前に西部食堂の大きな貯蔵ビンに米が十分あることを確かめておいて、わたしは見ず知らずの三輪トラックをつかまえ、500円払う条件で事前に佐伯氏と打ち合わせた、京大とは違う場所へ運ばせたのである。この間20分くらいだったか。もちろんずっとドキドキしどうしだった。
 佐伯氏はこの米でドブロクを密造し、それを元手に河原町四条下がるにあった櫻食堂の隣に新しい食堂を開いた。しかしこの商売はうまくいかなかったようだ。だからわたしの京大生協への仕返しがよかったのかどうか。佐伯氏はその後落ちぶれ始め、三年後くらいに千恵さんが神戸の春日道商店街のはずれに開いていた焼き芋屋を訊ねたのが最後である。佐伯氏を騙すことを入れ智恵した者が三高側にもいたかもしれないいので、『千里眼』のわたしの手記を見せたのは、この件とはまったく無関係で、共済会の戦後第一期の委員長だった椎野佐昌氏だけである。

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