末石月報 忘れ難き日々−わが闘争の記憶と記録  

第4章 指導教授との確執は越えられたか

 京大の助教授になった58年以来、わたしは直接間接に五人の教授に仕えた。この中で最も関係が深く、またわたしに大きな期待をしてくれたのが、学生時代からの指導を受けた石原藤次郎教授である。ただし研究上の微細なことには指導は一切なかった。
 京大の土木を出る時、わたしは国家公務員試験に合格して、完全に自分の判断で運輸省の本省採用に決まったのに、石原教授はこれを断って大学院(旧制の研究奨学生)に残れと命じた。元々大学教員になるなどの希望はまったくなく、学生時代に実習やバイトで経験した漁港(円山川河口の津居山、淡路の志筑、高津川と河口の石見益田、琵琶湖の堅田など)の風情と人情に魅せられて、漁港も運輸省の管轄だと間違えていたが、とにかく父がよく仄めかした高級公務員を目指していた。ただし、土木の多くの学生が第一志望する建設省は嫌いだった。大学院のことは、父まで動員して防戦したが、結局2年だけという約束で手を打った。2年後また公務員試験に合格したが、順位があまりよくなかったので、石原教授は建設省への推薦状を書いてくれた。しかし教授の思惑での指図を受けたくなかったので、建設省の面接では落第するような応答をして無事不合格になった。
 ならば神戸の水道が要員を欲しがっていて、推薦状だけで無試験で入れると教授に指図されたが、これも断って、志願者が約百倍だった大阪市の公開試験を受けて合格した。だがこの時いっしょに受験した五人のうち一人が落とされたので、石原教授は問題の出し方が悪いとクレームをつけ、この一人も合格者にしてしまったのには舌を巻いた。
 わたしは水道局長になるつもりで、広範な仕事に精励したが、58年2月に突然、講師にするから大学へ戻れという石原命令が来た。これはわたしにとって晴天の霹靂で、神経性胃炎にかかった。助教授でないと帰らない、と抵抗したが、「八人の教授が決めたことに従えんのか!」という応酬もあって、遂にわたしは折れた。後日わたしが知ったのは、「末石を必ず大学に戻すのでそのつもりで」と、わたしの就職直後に市の幹部は聞かされていたという。4月1日に着任すると、辞令が助教授だったのにもビックリした。
 石原教授の発案で、新発足した衛生工学科の将来を、教授はわたしに託す、ということを時々話してもらった。わたしは「ハイ」とは答えなかったが、他にも学位を取ったら研究テーマを変えろ、留学先は皆が行きたがる米国以外を選べ、などには、わたしも納得し、決して他人の真似をしなかった。「これはお前にだけ教えておく」ということで、戦後すぐ、成果の挙がらない教授を追い出すための規定を工学部教授会で制定した経緯を話してもらった。その規定が実際に発動されたのかを尋ねたら、ルールができたことで、当の二人が自発的に退職し、運用されたことはないということだった。この二人が誰かはわたしにもすぐわかった。他学科の先輩教授にこのことを知っているかと質問したら、誰も知らないようだった。こういう気構えで大学教育をリードしている学長や教員が今いるだろうか。
 わたしが石原教授と対立した最高の山場は、69年6月半ばに訪れた。当時は大学紛争の余韻で工学部学生は長期ストライキ中、直接的には、衛生工学志願者の入学試験成績が悪い(志願倍率が低い)という理由で、土木系の中に併合されていた衛生工学の学生への土木教員の不穏当な発言が誘因となって、衛生工学科を土木系から分離せよ、という激しい要求が教員に突きつけられていた。わたしは学科主任代理をしていたが、あまり団交には出席せず、対学生・対土木の双方に通用する論理を探った。助教授時代には、志願者が少ないのならこれを増やすための宣伝活動をしようと合意して、その準備を始めていたのに、衛生のG・T教授がこれを石原教授に注進して、「国立大学としてはしたない!」という叱責を引っぱり出して、計画がオジャンになり、その挙げ句の土木系への併合に、衛生の教授たちはなんら抵抗をしなかったし、その上衛生のカリキュラムへの土木の介入も激しくなった。大袈裟にいえば、大土木が米国、衛生が沖縄県、衛生の教授団が弱腰の日本外交というところか。
 6月19日の何度目かの団交に出たわたしは、事前に教員仲間には一切相談せず、学生たちの怒鳴り声が最高潮に達した頃を見計らって、分離を応諾する腹を打ち明け、作り上げた論理を披瀝する代わりに、手続きをすべて末石に任せよ、と宣言して、合意を得た。この論理をここに述べる紙幅はないので、拙著『環境学ノート』(世界書院、2001年)を熟読されたい。翌週の土木系会議に、わたしは経緯と論理を縷々と述べた文書を持参・配布し、本日から衛生の教員はこの会議に出ない、来春の入試から系とは別個に単独募集をすることを宣言した。水を打ったような静寂がしばらく続き、石原教授の嗄れ声は「土木会(土木の同窓会)から除名してやろうか。」「ハイ結構です。卒業証書をお返しすればいいですか。」これはわたしの即答。団交では言わなかったけれど、この覚悟はできていた。ふたたび静寂が続いたので、ここでわたしは席をたった。73年末に対外的な学科の失態のため迫られた社会的過激集団との団交を乗り切ったわたしは、京大に見切りをつけた。
 わたしは学生時代には、生協の総代などの活動は続けていたが、全学連などの運動全体にはやや批判的な立場にいた。けれども、51年春に昭和天皇が京大を訪問した時、直訴状を書いたのは三高同級生の中岡哲郎だったことや、この事件のため京大生で唯一放学処分を受けた榎並公雄が中学の二年先輩だったことなどの関係で、これら個人の生き方の批判はしなかった。後年榎並公雄が起こしたシンクタンクから協力要請があった65年、わたしはすぐにOKを出した。その榎並は早逝した。彼の10年忌の集まりで、天皇事件当時の榎並の相談相手で、私も大学復帰時に世話になった当時の角南学生課長に出会い、すでに故人になっていた石原教授のすごいエピソードを初めて聞かされた。
 戦争中、軍が京都府の長田野に航空基地を作ることになり、京都の全大学の学生が動員されたという。その時の総責任者を石原教授が引き受け、軍の待遇が悪ければ即刻学生たちを引き上げることを承知させたのである。でも約束が履行されず、以後大学側は学生たちの動員に一切応じなかったのだそうだ。石原はこの話をわたしにはしなかった。わたしが「恩師の掌からの相続財産」(『悠(HARUKA)』11巻1号、1994年)を書いたのはその直後である。

                        [末石月報のトップへ]