末石月報 忘れ難き日々−わが闘争の記憶と記録  

第5章 公共行政の権力構造との対峙

 大学の教授(特に理工系や法経系)になることは、往々にして御用学者になることを意味している。わたしの経験では、各行政体は、中央から地方に至るまで、御用学者の選出マニュアルかマル秘のリストを完備しているかにみえる。わかりやすくいえば、審議会の委員就任に首を縦に振ると、委員長候補者の名を挙げるか、事務局一任と叫ぶ役割までが段取りされる。委員長には発言原稿までが準備されることも多い。
 71年から計五年間ほど、わたしは中海干拓/宍道湖淡水化事業と諫早湾の干拓・淡水湖化事業に関わった。この期間は、京大工、阪大工、京大経研の教授の兼任もあって、実に忙しかった。諫早湾のギロチン締め切り(97年4月14日)の特異さや干潟の重要性認知度が高まって以来、関連事業の報道量が増えてきたが、わたしが関与した頃はまだまだローカルな問題であった。その詳細を述べるのが今の課題ではないので、詳しくは拙稿「公共水システムの復権」(『経済評論』25巻5号、1976年)を参照されたい。
 両事業とも農水省のもので、多分その強引さと水質問題に疑問をもった厚生省が、担当の坂本弘道課長(わたしの直弟子)を通じて横槍を入れる仕事を持ち込んだのだ。もちろん、水質に関して厚生省の意見も入れるという農水の配慮もあったはずだ。「僕の思うままやってもよいか」に、坂本は「どうぞ」と即答した。
 いずれの場合も、弟子や協働者を連れて最初に現地入りをすると、地元の最高級料亭での宴席が待ち受けて、知事、部長らも同席する。しかしこれでからめとられてはならない。島根県の場合、これは厚生部管轄の水質だけの問題ではない、と見抜いたわたしは企画部の仕事に変えさせて、「地域水需給」をキーワードにした計画問題に重点を移した。県当局はわたしの意図を多少は受け入れ、延べ三回も地域住民に対するわたしの講演会を開いてくれ、特に数年後には、宍道湖事業の休止の是非を審議する県議会の参考人にわたしを呼ぶことを自民党も賛同した。ただし、三年間に四人も交替した企画部長は、皆中央からの派遣で、「なぜこの貧乏県のために・・・・」という思いだったのだろう。
 諫早湾のほうはもっとひどかった。中海・宍道湖の場合とも共通して、開発推進役は、京大農業工学の南 勲(故人)で、彼を支える農業工学者が九大から三人参加していて、事業名は長崎県南部総合開発になっていた。わたしが委員長を務める水質検討委員会への諮問は、「淡水湖開発はこの水が飲用可になるという前提で進めてきたので、この前提を検討せよ」である。ところが十年単位で計画の検討をしていると、その間に必ず渇水年が現れるので、開発推進にとってはひじょうにつごうがよい。宍道湖の場合も同じだった。ダム建設計画がゆきづまったら、次々とつごうのいい目的に書き換えるのと同じである。そこで、前提を検討すべき委員会が、この水を飲まねばならない、そのための技術は?というふうに議論をすり替えようとする発言が出始めた。わたしの委員会に、先の四人の推進者がそのまま参加していたからである。わたしはこういう計画論理のすり替えを許さなかった。前提の検討ならこちらにも前提が要る。流域の汚濁が全部集中する最下流の湖水を水源とするなら、そんな水でも飲むという流域住民の合意が前提ではないか。
 答申の原案はもっと複雑な構造にしたが、わたしの論理は単純思考の技術者には理解し難いという利点をうまく利用して、全委員を納得させたが、わたしの論法に危惧を抱いた県の南総局が許し難きペテンをした。最終答申内容を、わたしが新聞発表をするという約束をとりつけたのに、その当日、長崎空港でわたしを待ち受けていたタクシーは県庁へ向かわず、ひそかに島原半島の小浜温泉に走った。つまり新聞記者団を撒いたのである。その上、県は勝手に「末石答申は飲用可」と発表したのだ。ここで前々から漁民たちとともに開発反対運動を展開していた山下弘文(後の諫早干拓緊急対策本部事務局長)が登場して、わたしは救われた。わたしの答申の真意を引き出す形の、実に五十項目にも及ぶ公開質問状を全委員に送ってきた。この質問内容だけで、山下の専門領域(生態学)がよくわかった。右から左に答を公開されたら誤解を招く項目には、そう理由づけて回答を拒否したが、その他の項目には丁寧に答えた。これに丸一日くらいかかった。他に推進派の戸原義男(九大)だけが回答したが、「委員長の見解と同じだ」というていどの簡単なものだった。山下は、拒否という文言もそのまま、わたしの全文を公開したので、新聞記者が騒ぎ出し、県とわたしの対峙が露見するとともに、わたしも新聞の一面トップで叩かれもした。
 その後、県は事業には直接関係のない諸橋長崎市長を動かして、「どうか飲めると発表して下さい」と、わたしの前で土下座までさせた。それでもわたしが動じなかったため、南総局長は左遷された。南は、「農水省の力でお前(末石)の講座などはひねりつぶしてやる」と脅したし、次のステップでは、わたしの弟子筋にあたる某大学の衛生工学者が、わたしに相談もせずに御用学者役を引き受けた。この二人とも計画学者ではない。
 わたしが関与した時に比べて、現在の事業規模は半分以下になっているのに、その影響が有明海全体の海苔の不作に影響するとは、考え及ばなかった。農水省は今窮地にたっていて、戸原(九大名誉教授)も加わった第三者という名目の委員会にボールを投げたが、この委員会がいかに取り仕切るか、まさに見物なのである。
 98年10月13日、県立諫早高校生1200人に「地球環境の危機」を講演するわたしにとっての絶好の機会を得たのに、淡水湖事業の顛末を話すことだけは事前に禁じられてしまった。今、前大戦の語り部たちが招かれることも減り始めていると聞く。ゴールドマン環境賞を受けた山下の業績も日本では評価されず、彼は早逝した。後を継いだ夫人の八千代さんに期する他はない。

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