末石月報 忘れ難き日々−わが闘争の記憶と記録  

第6章 行政は恩を仇で返すのか

 日本の公共事業は、大なり小なり上記のような構造をもっている。行政はいつも一所懸命に仕事をしている体裁をとるが、そもそも事業の需要予測がひじょうに甘くて、仮に失敗があっても、人災を自然災害だと見せかける仕組みさえを内蔵している。ここに「失敗研究」が欠かせない必然性がある。小泉流の聖域なき構造改革でも、タックス・ペイヤーズ・マネーを好きなように使われて、痛みは国民全般に押しつけられる。中学時代に実体験した軍の防空壕も同じだし、コマ切れの講義科目を羅列して、教授という権威でその総合化の必要を学生に押しつけている大学のカリキュラムも同類だ。
 わたしの最後の職場であった滋賀県立大学と(財)千里リサイクルプラザ 研究所での経験も、「恩を仇で」という関係で総括せねばならない。数え上げればキリがないのだが、それぞれの核心的な一つだけを書き遺す。
 旧文部省の認可を取ることを第一条件として、わたしを取り込むことに奸計までを弄した滋賀県は、当初約束した「環境社会計画専攻」の教員定員10名のうち2名を、学科長予定者のわたしに無断で他に移し、これを追及したわたしに責任者は黙秘を押し通した。定年退職直前に教育体系の抜本的改革を文書で進言したのだが、名誉教授の称号と引き替えにこれが握りつぶされることも見え見えで、口頭説明を打診してくる気配すらない。この三月末、滋賀県の退職者に、國松善次知事の多分全員同文の感謝状が額縁つきで贈られた。しかしわたしにとってはメリもハリもない文面である。ありがたがってこれを部屋に飾る人もあるのかも知れないが、前例を踏襲していること自体が行政の権威主義なのだ。わたしはすぐに感謝状は故紙の束に加え、額には長男が小学一年の時金賞をもらった絵と入れ替えた次第である。
 千里の市民研究員の制度自体が世界でも稀で、日本にも前例がない所長の役目を試行錯誤することは、楽しさがあった反面で、採用試験を課さないため、セミプロ級のボランティアや過剰な正義感の持ち主をインスパイアする難しさを、わたしは身をもって味わった。ただ後継者を探すことができなかったし、創立五年の行事が日本財団のきびしい評価をパスした安心感から、マンネリ化しつつあった制度を点検しなおす好機をのがしてしまった。 ところが思いもかけぬ方向から厳しい矢が放たれた。99年に着任した阪口善雄新市長の密命を受けたと豪語するI・Mが専務理事に送り込まれ、わたしの意見は聞かないとさえ宣言して、研究所再建委員会を立ち上げたのだ。表面的には市の財政赤字二百億円とか、研究内容をリサイクルやゴミ減量からもっと拡大するという麗句を掲げたが、委員会の顔ぶれ一般からは、いかにして九年の実績の功罪を見分けてくれるのかの懸念のほうが多かったのである。おまけに、前後八年間も市の廃棄物減量推進審議会長を勤めて、右へ倣え方式でない審議方式を真摯に指導したわたしに向かって、環境部長までが居丈高な態度を取り始めた。そして遂に、市長からも部長からも一言の謝辞を頂戴することもなかった。簡にして要をいえば、80年代初めに、ある失政から廃棄物最終処分地問題で市が進退きわまった窮状を救うべく集まった、わたしも含めた善意の集団が、容赦なく使い捨てられたのである。
 世の大学教授諸氏に告げる。わずかのお布施をもらって研究上の情報収集ができると信じ込み、行政の御用審議にでかけることをいいかげんに止めよう。調子のいい竹中平蔵大臣が同じような憂き目にあう時、日本の前途は暗黒の闇に包まれているだろう。人間というものは、目の前に原爆がぶら下がっていようとも、これが爆発するまでは安穏に危険をやり過ごすのだ。英語ではこういう。“People might not feel a thing until it is too late.”

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