末石月報 てづくりの国際会議(第1章)

今回の報告内容はかなり古いことですが、国際都市雨水排除会議を、何年か後に日本で再度開いてもらうことを期待している人から読みたいという申し出があったので、あえてここに掲載してもらうことにしました。国際会議の舞台裏も曝露?していますので、やや長いですが、拾い読みをして下さい。

プロローグ−失われた十年
 本来ならこの手記は、10年前に『千里眼』に投稿するつもりだった。ところが、私じしん予想もしなかった事態が次々と起こり、執筆開始を三年延期した。そして少しずつ書き始めたものの、93年1月に東京で新幹線の車中に電子手帳を置き忘れ、覚えていた座席番号を頼りに夕方駅の遺失物係に申し出たのだが、とうとう返らず、執筆は頓挫した。
 表題の国際会議は、81年から私が準備してきた略称/ICUSD(90年7月23〜27日、吹田市メイシアターで開催)で、これを当初から「てづくり」にしようと考えていた。結果的には87年秋にも同じ会場での「リスクに関する日米ワークショップ」(10月26〜30日)をきりまわしたのだが、これがいい意味で90年の練習台になったので、この二つを束にして比較の視点も加えると面白くなるとも読んでいた。しかし私がいつどこで何をしたかの記録がなくなってしまい、ほとんどすべてを記憶だけに頼って書かねばならない。もちろん、重要な書類や文書は保管している(はずだ)から、他に何もすることがなければ、これらをいちいちひもといて悦にいるのもよいだろう。
 だがしかし、私は(私史編纂室)に閉じこもる余裕がなくなってしまったのである。その最初の原因は、京都精華大学人文学部を89年に創設するので、そのキー教授で、という勧誘で、しかもこの使者が京大の紛争時代の論敵だった槌田 劭だったから、私としては「人生意気に感じ」るではないか。90年会議のため着任は2年遅らせてもらったが、91年には阪大を定年前に辞めて、吹田で市民研究所を立ち上げることを決めていたから、私史どころでなく、甲南女子大文学部の非常勤で始めていた「原子力概論」(注1)とあわせて、60才近くなって新講義を数本抱えてしまった。
 いま振り返ると、90年は日本のバブル経済の絶頂期で、それからは「複合不況」が徐々に深刻になり、政府の打つ手はすべてマイナスに働いた。遂に2000年には、どこに出しても恥ずかしい森 喜朗に率いられた日本は「前門の虎・後門の狼」の状況、だから、失われた10年というのだろう。大学も同じこと、第二期の団塊の世代を当て込んだ新設・定員拡大が相次ぎ、数字だけ挙げれば約半数をリストラせねばならぬ様相に陥っているのだ。
 日本の各分野が好むと好まざるにかかわらず、国際会議を引受けるようになったのは、おおいに意味があることだろう。しかしその内実はまさに、バブルの惰性を引きずっていたといえるし、また日本での取り組み方は、「船頭多くして舟山にのぼる」の類いで、心のこもった「てづくり」とはまったくかけ離れている。これがそれまでの私の経験でありかつ述懐でもあった。私がとり仕切った90年の会議の翌週に開かれた兄貴格の会議(第15回国際水質汚濁研究会議)でも「てづくり」が謳われていたが、たまたま私も組織委員の一員にされ、一度だけ出席した委員会で、東急エージェンシーに運営委託費をウン千万円払うという予算書を見せられて、「何がてづくりなもんか」と内心軽蔑をしたのである。
 
 今全体をほぼ書き終えて読み直してみると、時間的には前後入り乱れ、自分でもうんざりするほど長い。私じしんは人生の終期に近く、失われた10年を取り戻そうと、思い出すことを次々と連ねすぎたようだ。だから同人諸氏には、小見出しだけをご覧頂いて、拾い読みして下されば幸甚である。

USDとは
 90年会議の正式名は、"5th International Conference on Urban Storm Drainage"で、日本語では、第5回国際都市雨水排除会議と呼んだ。読者には何回めがどこでということなどあまり興味はないだろうが、自分用には記憶を記録化しておくほうがよい。第1回イギリス/サザンプトン、第2回アメリカ・イリノイ州/アーバナ・シャンペーン、第3回スウェーデン/エーテボリ、第4回スイス/ローザンヌ、第5回日本、第6回カナダ/ナイアガラ・フォールズ、第7回ドイツ/ハノーバー、第8回オーストラリア/シドニー、初回が78年で以来3年ごと、第9回は02年アメリカ/ポートランドで、今第10回の開催地を募集中である。
 「へー、阪大ではバイオか臓器移植ばかりかと思っていたら、そんなんもあるんですか。リマークしておきます」。90年会議について毎日新聞から電話取材があり、私の答えに対する記者の感想であった。リマークしてもらったかもしれないけれど、記事には一切ならなかった。ただし、何新聞かは忘れたが、行事案内欄には掲載されていて、一市民からの電話もあった。「私たち普通の市民も聴講にいけるんでしょうか?」「正式の参加者は会費がいるのですが、市民の方はタダにしますから、どうぞどうぞ」。私は受付担当者にこのことをリマークしておいたが、とうとうこの人も現われなかった。いずれも、会議開催直前のことであった。
 UとDはともかく、Sには同人諸氏も、もちろん新聞記者も戸惑うであろう。嵐って何?専門的にはこれを豪雨と解釈するのだが、特段には風の概念を含んではいない。
 約150年あまり前のヨーロッパの都市づくりで、水はけが悪いジメジメした街では病気が発生しやすいとして、雨水を迅速に排除(drainage)するための下水道の仕事が定着し始めた。日本では誰が原語を排除と訳したのか、私は寡聞にして知らないが、「土地の高燥化」のために下水道がいるのだ、と大学では習った。今は排除される雨水の水質も問題になっていて、この場合には豪雨もさることながら、むしろ微雨のほうが影響が大きい時もある。
 ただしこの課題は、土木工学でも環境工学でも、底辺の底辺に位置している。日常のわれわれの生活に密接に関わっているのだが、都市に豪雨が降ったらどうやって排除しているかは、市民にはほとんど知らされていない。つまりは豪雨の規定の仕方である。
 山や森が荒れ放題で洪水が頻発した戦後の日本に定着したのが、アメリカから輸入した水文統計(すいもんとうけい)で、何年に一回どの位の強さの雨が降るかということと対策費用を天秤にかけて、計画をたてるようになった。現在これを取り仕切っているのは、建設省の都市局の下水道部だが、仕事は無限に続きそうである。なぜか?
 都市の雨水排水は、せいぜい10年に1回程度の豪雨を対象にしている。10年に1回というと、非常に珍しい雨のように聞こえるが、そんなことはない。淀川の下流部で200年に一回、中流部で150年、琵琶湖に流れこむ大きな川で、目標はだいたい100年に1回である。今ホットな話題になっている四国吉野川の第十堰では、150年に1回がキーになっている。
 都市では、10年に1回の計画を達成しているところもそう多くはない。だから、この確率を少しずつ厳しくしてゆけば、仕事は永久に続くわけで、この部分だけを学問の対象にすることはあまり意味がない。理屈はきわめて簡単で、それをいかに小難しく見せて市民の税金を使うか、というのが、役人のやっていることである。役人はそんなことは気にもしていない。

 このあたりまで書いてきて、またまた邪魔が入った。92年の夏には精華学園の常務理事を懇請され、ほぼ同時に、滋賀県立大学(環境科学部が目玉)を創設するので面倒をみよ、学部長になれ、云々。嫌だと固辞したのに、「文部省への申請の相談だけにはのってほしい」にOKしたばかりに、学部長だけは逃れたけれど、私は県の相次ぐ奸計に陥れられ、結果的に今日まで、多分全学一の講義負担や大学の自己点検報告書作成など、健康まで徹底的に損ねてしまった。それでも県は釣った魚には餌をくれない。
 こういうわけで、この手記の仕上げは、さらに7年経過した2000年夏にずれ込んでしまった。

国際会議の3様式−本音と建前
 国際会議には少なくとも三種類あると思う。てづくりかどうかということとは別にである。今はグローバル時代だから、国際会議が目白押しになるのは当然である。
 第一は、国際的に何かを取り決めようとする会議、第二が、学術的なものや姉妹都市関係も含めた交流を目的とするもの、第三はIT(Information Technology)にもとづくもので、インターネットが一般化するだいぶ前に、2億人のコンピュータ会議がソ連で提案されている(注2)から、これが今後は国際化するのは容易であろう。以下に示すいくつかの例は、それぞれどの様式かまたはこれらの組合せかすぐわかるはずだから余分の解説はしないが、いずれも本音と建前が入り交じっていることを見抜いて頂こう。
 地球環境問題がクローズアップされてきた頃に、日本の熱帯雨林の伐採量、輸入量が多すぎるという批判が外国から出てきた時があった。これはもう一五年以上も前のことである。日本人の割箸使用量の多さが一方的に攻撃された時でもある。この伐採・輸入の仕事の中心を担っていたのが三菱商事らしく、アメリカで世界の森林を破壊するワーストテンを投票したら、第一位が三菱商事社長の諸橋 某という結果になったらしいが、こういうことは日本では一切報道されない。
 こういう時期に、熱帯雨林の伐採に関する国際会議があったのだが、環境庁の役人すら参加しなかった。私たち環境関連の学者、研究者にも一切声がかからなくて、外務省が独断で取りしきった。そのときの会議録が、アメリカ人の手を経て偶然私のところへきた。今も大事に残しているが、どういう表現を日本の外務省がしたのかというと、日本の森林の貿易量は、総貿易量の"only 2%"とか何とか。onlyという言葉が10回くらい出てくる。これで、押し切ろうとしたけれども、もちろん無理である。
 この種の国際会議が今は無数にあるだろう。炭酸ガスの問題ひとつをとっても、正規の国際会議はCOP.1〜5(COP3が京都)と毎年やっているらしいが、京都以外の時は報道量も非常に少ない。G8の沖縄サミットも同類である。京都会議の時は、議長の環境庁長官が途中で逃げたが京都駅で思い直した、なども新開記事になる。こういう状況の裏を読んでみると、たとえ環境が主題でも、環境庁の役人だけ、または国立環境研究所だけが主役になっているとは思えない。

 私が御当人から実際に聞かされた例では、食品添加物の国際会議で厚生省の役人だけでは対応できないので、食品関係の研究者に声がかかった。頼むから出てくれと臨時に一種の腕章をもらうわけだ。この人の経験を聞いていると、ここで俺だけ出ていったい何になるんだ、という思いが強くなるそうである。要するに、余分の発言をできるだけしないように、とおそらく役人が言うのだろう。情けない話だなあーと私が思ったのは、ただ時間が早く過ぎるのを懸命に待つのだ、という。だから、責任をもった答えは日本に帰ってからといえば通るわけである。けれど、外国から出てくる代表者にも似たことがある、というのが世界中に定着しているらしい。UNEP(UN Environment Program)経験のある井手慎司によれば、国際舞台の決定にかかわる協議の場でなるべく自分が責任をとらないでおくということを、ゴミ問題のニンビー(Not In My BackYard=わが町の裏庭に処分場をもってくるな)・シンドロームをもじって、NIMTO(Not In My Term of Office)というそうだ。つまり自分がオフィスで責任職にいる間は、なるべく面倒な仕事にかかわりたくないという意味である。
 日本の役所がともすれば不必要な公共事業を起こすのは、ある役人がこの種の職にいる時に大洪水が来たら困るから、自分は200年に1回の洪水防止計画を300年に一回に大型化したという証拠を残しておきたいわけだ。こういう分析をしたら、現在の公共事業がだんだん大型になるということが完全に読めるということを、今から約25年前の本に書いた(注3)。私もNIMTOすれすれの経験をしたことがある。
 西太平洋諸国の環境に関するデシジョン・メーカに対して、高等環境教育をやろうという提案がフィリピン大学の環境計画研究所長のL・ヴィロリア(Leandro Virolia)から出てきたのは、たしか81年だった。可能ならユネスコの援助も得ようという。私が呼ばれた理由は、私のところへ来た最初のフィリピン留学生が修士号を取って帰国後こういう動きをしたらしい。一応OKを出したのだが、だんだん深みにはまることになる。ユネスコがなかなか金を出してくれないので、阪大から少し出してくれないか、という要求が出てきた。このときは、私の自由になる研究費から10万円を引き出して、それを阪大という名目で寄付した。ここで、ACHEE(Asian Committee for Higher Environmental Education)の結成を合意して、2年後にもう少し多くの国の代表を集めようということで散会したが、オーストラリア、インドネシア、マレーシア、タイ、中国などの代表との折衝はすべてヴィロリアに任せたところ、今度は阪大から100万円くらい援助してくれと言ってきた。ところが阪大の経理の担当者が変わっていて、前と同じ枠の研究費の支出を頼んでいるのに、断固として「前例がない」と言い張った。だからこの時は、マニラでは大きな顔ができず、時間の過ぎるのをじっと待つという感じになった。
 ACHEEの正式の会議で私は、将来のデシジョン・メーカは市民だという趣旨の演説をしたのだが、中国から来た代表は、中国の意思決定者は共産党のトップで、われわれは彼らにちゃんと教育をしているから、こんな委員会に参加する必要はないというようなことを発言した。ところがヴイロリアはフィリピン政府の中枢にも相当根回しをしていて、委員会設立の合意書への署名とか、公式の歓迎行事もあり、マッカーサーがオフィスにしていた立派なビルの大ホールで政府要人も含めた晩餐会もあった。こういうところでは、日本代表として黙っているわけにもいかない。逃げ口上は、日本へ帰ってからよく相談して前向きに……、という建前的なスピーチになってしまう。結局ユネスコからのいい返事がなくて、ACHEEは立消えになったからよかったものの、人任せにしておくと、国際的に無責任な立場に追い込まれることもあることを痛感させられた。
 注意すべきことは、日本にはこういう建前論で逃げなくてもいい職業上の制度が全くないということである。
 少し長くなったが、以上が第一の型である。第二の型が、学術関連の交流の場合である。私のテーマが「てづくり」である所以は、上記の経験とも関係をしている。ところが日本では国際会議に論文を出す行為は、制度的には保証されているのだが、業績的には、自分の所属する大学ですら何の評価もしてくれない。情けないことである。互いの仲間内でだけ、あいつはいっぺんも外国にいきよらんなー、ということがわかってくる程度である。
 私の阪大の元同僚で、教授のYとNは、私が15年在籍している間に一度も外国出張をしなかった。もちろん、そうすべきだと強制はできないが、私が学科長をしているときに、せめて、いつ誰がどこへ何しに行った、くらいの記録を残そうや、という提案を学科会議でして、これを15年記念誌の項目として強引に認めさせた。残りの教員は留学にしろ、海外調査にしろ、論文発表にしろ、2年に1回くらいは外国での経験を積んでいるのに、この二人には何もないので、案を飲んでくれたけれども、私の方を難しい顔して睨んでいて、挙げ句、講座あたり何行以内で書けという注文をつけた。現在でも、文部省がやっている教員の資格審査では、何遍外国学会に出たかということはいっさい評価されない。この時以来私は、アカデミックな国際会議は、むしろ学術的な活動ではないという立場をとることにした。それは学者のイベントだと。イベントである以上、当然そこにある種の演出家がいていいし、集まってきた人をエンジョイさせるための仕掛けも要る。しかし、学術発表をいっぺんもやらないというのも困る。
 国際的集会の時に忘れてはならない非常に大事なことを、若い学生たちにはぜひ伝えておきたい。日本では評価されないけれど、外国人には評価されるということだ。特に、個人を売り出すいい機会である。私の主義は、外国人とコミュニケーションする時には、「一歩前へ」ということである。私じしんもそれを実行してかなり成功してきた。
 例えば、私の最初の経験は、カナダ政府に奨学金をもらって、一年間現地にいて日本へ帰ってきた64年で、第2回国際水質汚濁研究会議が、オリンピック前の大渇水の東京で開かれた。こういう国際会議をいよいよ日本も主催するから帰ってこいという教授の命令で、いやいや帰ってみたら、何もかも準備は全部できていて、発表すべき論文も書いてないし、仕事は何もない。それで事務局でぶらぶらしながら、同じような目にあっていた宇井 純(当時は大学紛争前で、まだあまり有名ではなかった)と雑談をして過ごした。用事がないからといって、逃げ出せないのが日本のしきたりである。ポストコンフレンス・ツァーが京都であるので、「おーい、末石君。下水処理場行きの観光バスの案内をやれ」ということになった。
 バスで一番前の席にいたドイツのストゥットガルト大学のごみ問題の権威とされていたべーベル(Popel)が、私の話を聞いた後で、「おまえ、一週間にどれだけ講義してるのか」と聞いてきた。わたしはまだあまり講義はしてなくて実験実習が非常に多かったから、それを数えて十何時間と答えたら、「ばかもん!一週間に10時間クラスをもとうと思ったら、30時間も準備などに余分にいるぞ」と叱られた。しかし、それからその先生とは話がツーカーとできるようになった。
 私がまだ若造だった68年に、大阪へA・クネーゼ(Allen V. Kneese)というアメリカの未来資源研究所長が来た。環境経済学の始祖といわれた大物で、私も歓迎の宴会に同席する機会を与えられた。その時にしゃべる内容はあまりなくて、ただ先輩達の話を傾聴していたのだが、私の正面に私よりはるかに若いドイツのH・カルペ(Hans Karpe)教授がいたのを私はマークした。その彼と、76年に東京の帝国ホテルで環境経済の国際会議があった時に偶然出会った。私は日本代表で、彼はドイツ代表のスピーカーだった。ただ68年の時はろくに言葉を交わさなかったので、彼が私を覚えていたかどうかはわからない。
 夕食後に一人で歩いているのを見つけて、よし、この時こそチャンス。「おい、俺と一緒に飲もうや」と声かけたら、彼はたいへん喜んだ。それで六本木まで行った。飲んでいるうちに、「おまえ、ドイツに来るか?」と、いうことになった。もちろんイエスだ。しばらくして、神戸ドイツ領事館でのD A A D (Deutscher Akademischer  Austauschdienst=ドイツ学術交流会)への申請の手続きが要ったが、あとはカルペが段取りをしてくれて、クリスマスイヴには決定通知が来た。ただし滞在費が月2000マルクでやや不足、学生と一緒の寮に住んでいた。まあ、「一歩前へ」の成功例である。
 これも詳しく書きたいのだが、阪大大学院の卒業生で京都市の下水処理場へ就職させた野村克己から、アーヘン工大の下水の超大物のべーンケ(Bohnke)が来るという知らせを受けた時も、野村に「一歩前へ」を厳命し、その後、ドイツ語の猛勉強の示唆や下水道局長への休職依頼など、私じしんかなり際どいサポートを彼にしたが、約10年後、彼の博士学位の試験委員の一人として私もベーンケに招聘される光栄にあずかった。
 第三の型の国際交流は、むしろこれから先のことであろうが、沖縄サミットの報道を見ていても明らかな日本の課題は、光ファイバー以外のハードがアメリカより数〜10年遅れていること以上に、コミュニケーションの内容(contents)が重要なことの認識である。この点、本土の人間は概して、平和ボケしている。環境といえば「リサイクル」か「自然保護」が鸚鵡返しに返ってくるのも、私に言わせれば平和ボケである。私の着眼は、5ICUSDのてづくりの中で説明する。

(注1)ある会合で私が、環境問題を教養科目にと仕掛けたら、この科目名が帰ってきた。横で電話を開いていた妻がやれやれとけしかけた。私は一般書を相当読んでいたので、引き受けた。もちろん原子力技術者を養成するのでなく、むしろその妻たちのもつべき素養を講じた。
(注2)M・グルシコフ/M・モーイエフ『コンピュータと社会主義』岩波新書、1974年
(注3)拙著『都市環境の蘇生』中公新書、1975年

 

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