末石月報 てづくりの国際会議(第3章)

国内参加者の発掘
 1987年の"Final Announcement"を用意する頃には、私は海外からの参加者を200人ぐらいと読んでいた。日本へこれだけ集められればまずは成功なのだが、一方、国内の参加者がほどほどにあれば、体裁も整うし、またこういう言い方をすると当事者には申し訳ないが、登録料の点からは効率もよい。日本人は5日間べったりと会議に出席するのでなく、自分の業務を優先して、例えば、研究発表の義務を終えると仕事に戻ってしまって、別枠の予算のかかる行事に必ず参加するとは限らないからである。この国内参加者数の妥当な線はだいたい100人くらいだろう。この人数をどうして集めるかが、組織委員会のもうひとつの課題であった。
 スウェーデンの第3回目から、私は市川と相談して少しずつ手を打ってきた。日本の都市雨水行政は、やや活気に乏しいとはいえ、新しい問題に積極的に取り組もうとしている人材がいないわけではない。世界的にはまだ実験段階にあった「都市雨水の地下浸透方式」の実行にいち早く着手していたのが東京都であった。東京では、烏山寺町の僧たちが学者の指導をえて、同じような施策を寺の屋根のトユを撤去し、各寺で降雨や地下水位の測定を分担して、水が涸れていた寺町のシンボルの池の水を取り戻した、という実例も私は掴んでいた。また国技館の屋根に降る雨水を下水道に捨てずに水洗便所用に利用させる計画を実現させたのも、部外者的立場の墨田区本所保健所の村瀬 誠だった。
 こういう役柄を現場の立場から総合的に扱えて、かつ英語に物怖じしない人物として、都の下水道局の課長級で市川の教え子の藤田昌一の名が出てきた。私は英語でくどくどと話すよりスライドなどの映像を多用せよという助言をして、第3回での発表を懇請したところ、彼は「汚水は下水に雨水は地下に」というロゴ入りのシールまで大量に準備して、一躍「東京の藤田」を世界に認知させた。
 藤田の英語はそう流暢ではなく、いわゆるジャパングリッシュなのだろうが、発音が明瞭で内容も明解なこと、さらに発表原稿や資料の紛失を避けるため、3部を分散して別便で送るなどの用意周到さが、口頭発表の随所に出ていたことも成功の一因になっていた。スウェーデンからの帰途、私は一計を案じた。阪大での私の講義時間を割いて、彼に英語で特別講義をさせたのだ。前口上には私も英語で「君たちはいつも日本語に慣れ親しんでいるから、大事なことを話しても馬耳東風になっとるのと違うか、今日は神経を集中させていないと何も残らんぞ」と言って聞かせた。
 第4、5回と進行する過程で、藤田の線からも参加希望者が増えたことは事実である。ところが日本の役所には、変な因習があった(これは私も大阪市役所で経験ずみだった。例えば水道協会の研究発表会が京都で開かれるとしよう。京都ならヒラ課員でも発表課題を持って出張させてもらえるが、開催地が北海道なら出張旅費の配分は管理職に優先となってしまうのだ)。藤田でさえ、ある時局長から注意があったらしい。「そんなに国際活動をしていたら、奥野(注1)みたいになるぞ」と。
 こういう因習がまだ残っているなら、日本の中央集権制を利用せざるをえない。建設省でUSD関連の仕事を取り仕切っていたのは、土木研究所の下水道部長の安中徳二、本省の都市河川室長の日野峻栄だった。この二人に面会して、会議の経緯と今回の意図を説明し、それぞれ主要都市の下水道と都市河川担当部局への一種の行政指導を出してもらうことができた。この効果が絶大で、ここには詳細を示さないが、連名の発表者も含めると約200人もの国内参加者を確保できた。ただし、発表テーマは、建設省の総合雨水政策の公式の指導理念にそったもので、豪雨の地下大トンネルによる貯留、地下浸透工法の付帯設備に関するもの−私に言わせれば似たりよったりの施策報告−が大部分を占め、わが市の歴史的経験を生かして途上国でこういう技術指導をした、などの重点課題に応えたものは皆無であった。
 この傾向がその後も持続されて、8ICUSDでは日本人参加者が約80人、オーストラリアを除く国外参加者の最大の勢力に成長したのである。

国際化に忍び込む「悪徳」 の諸相
 組織委員会の竹内と虫明は、以前に日本で開かれた水理関係の学会の幹事役をしたことがあって、その時に得た経験の情報は大いに役立った。例えば世界から集まってくる応募論文数は〆切り間近になってからようやく立ち上がり始める、という記録を取った曲線まで提供された。ならばそれだけサバを読んだ日程を設定しなければならない。けれども、〆切りを守らないくらいは「悪」の範疇には入らないな、ということを痛感させられた。話は会議開催期間中のものまであるが、ここで集約しておこう。
 この会議用にも学振へ助成金を申請したことはすでに書いた。名目はキーノート・レクチャーへの謝金、会場費、などである。ところが、正式の助成決定書類がまだ来ないうちに、「先生補助金当たりましたよ」 という電話がかかってきた。「はい。なんですか?」「△△新聞です。どういう意図でこの学会をするのか書いて下さい」。ちょっとくさいと思ったから、「なんぼいるんですか?」「50万円」。ハイといえば補助金の半分はとんでしまうわけで、私が「いや書きません」と言うと、だんだん凄んできて、「では、ちゃんと学会がやれんでも知らんぞ」と、言い方が変わってきた(ヤクザみたいやな、学者が舐められてるな)、私の声もドスが効いているので、「邪魔したいならやってごらん、どうぞ」で、ガチャン。
 登録料などの受け入れは、私の仕事の一部(入金の管理、ホテルへの参加者の割振り)を近畿日本ツーリスト梅田支店の高橋 徹個人に任せたので、すべて三和銀行の同支店口座を指定して、小切手、カード、その他のメールオーダーなどは絶対に認めないことをアナウンスした。ところがこれを守らずに、大学発行の送金証書のコピーを送ってくる者がいて、疑えばキリがないが、遂に入金なしというケースが数件あった。このカネはどこに消えたのか。
 89年のいつ頃だったかは忘れたが、香港の旅行エージェントがどこで情報を得たのか、この会議を目的に海外参加者を日本へ送るツアーを組ませろ、という手紙が私宛てにきた。この場合は旅費も登録料もこのエージェントが一括して扱おう、という魂胆である。私は断乎拒否したのだが、やはり、この旅行社にカネを払ったという者が数名、会議初日に現れた。もちろん入金は全然されておらず、これは明らかに旅行社の詐欺である。こういうのが10人もいたら困るのだが、なぜアナウンスをしっかり読まなかったのか、と私は詰問して、正規の行事には一切参加させない、論文集も渡せない、名札もやらん、それでよければどの会場ででもモグリで勝手に聴講しなさい、ということで折り合った。
 傑作だったのは、叔母さんと称する女性を同伴したトルコの学者が、参加費はまだ払っていない、ここで払うから半額にまけろ、という。とりあえず事務局の私のところに寄越してもらって事情を聞いたが、何をいっているのかよくわからない。私にといっていかにも安物の花瓶を差し出したあげく、私の妻や数人の学生のいる前で、叔母さんと喧嘩をおっぱじめたのだ。私には予定の行動にもみえた。どうも会議より遊びに来た雰囲気なので、半額にまける、名札は渡す(公式行事には参加できる)、論文集(実費は1万円くらい)は渡さない、ことで手を打った。この銅製(らしい)花瓶は今も自宅の部屋の隅に転がっている。
 以上のような例を竹内や虫明、また近ツリからも聞かされていたので、ある程度は覚悟して臨んだのだけれど、87年の日米会議の時には、まったく予期せぬことが起こった。中国からもゲスト・スピーカーを招聘することになり、WHOのアジア支所を通して、北京の環境科学院の](匿名)を推薦してもらった。英語での討議ができること、を条件にしていた。半年ほどは順調に予備折衝ができていたのが、しばらく応答がないなと思っていた矢先に、都合がつかなくなったので、副院長のZ(匿名)に交代してもらう、という趣旨の手紙が来た。しかしこれまでの]の英語とは大違いだし、第一、署名の筆跡もまったく違うのだ。結果だけいうと、]が日本へ行くらしいことをZが察知して私の郵便を]に無断で開封し、]名儀の贋手紙を寄こしたのである。後日]もこのことを知り、上司はまだ外国へ行ったことがないのでやむをえない、と折れたらしい。最終決定が遅れたZの日本入国のため私は外務省へ交渉に行ったり、余分の仕事もたくさんできたが、Zの提出論文はお粗末極まりなく、主語・述語・目的語・補語の配列は無茶苦茶、行頭にピリオドが打ってあったりした。厳重に書き直しを要求したのはもちろんだが、会議での英語のスピーチも討議も座をしらけさしただけであった。かつて国際交流ではない直流の典型(一言も発せず写真ばかりを撮りまくる)とされた日本人も、Zと類似の行動をしたのかもしれない。

論文の査読と会議日程の編成
 論文発表の希望者は、89年の6月末までにA−4 1枚の要旨を提出する、査読結果を九月末には通知するから、90年1月末までに、フォーマットに従って最終論文原稿を提出すること、コンピュータ・セッションの希望者は、要旨の段階で意思表示すること、などを事前に周知した。
 これらが遵守されるという前提で、私はいったん国際助言委員会の全員を大阪に集めて、要旨一編に2人ずつの査読者をつけ、いっせいに審査をする、という案をたてたのだが、約10人を同時に日本に集める費用を学振などに申請する面倒さと、虫明の示唆のように要旨がさみだれ式に到着することから、イギリスのB.エリス(J. Bryan Ellis)だけを阪大の客員教授(条件は業績と3ヵ月以上の滞在)にすることにし、この間に日本の視察もさせながら、できるだけ多くの要旨の判定をしてもらうことで代替した。エリスを選んだわけは、第3回会議で私が司会をしていたセッションで彼が総合討論者を務めていて、その中で、第2回の私の発表を引用したのをキャッチしたからである。こういうことは当たり前のはずであるが、ある課題の時間軸上の経緯を議論に折り込める学者はほとんどいなくて、まあ可もなく不可もない発言でお茶を濁す者が外国にも多いのが実態なのである。
 エリスは日本は初めてだと喜んで応じてくれたので、教授会で客員教授の称号授与のことも可決してもらい、学振の手当てもすましたのだが、来日直前になって所属大学の入試委員長になったので三ヵ月がだめになった、と言ってきた。これでまた客員教授取り消しを教授会に上申する羽目になった。しかし彼は89年6〜7月の3週間、研究室に出てくれて、約200編以上の要旨を丹念に見て、いちいち最終論文完成へのコメントをつけてくれた。私は1日だけ彼を京都の寺社観光の案内をして、その夜は拙宅に泊まってもらい、あと別に一週間の東京への旅行の段取りをして、労をねぎらった。
 ここまではまぁうまく運んだのだが、エリスの帰英後に着いた分をどうするかが問題だった。コピーを2部とって、場合によってはファックスも使って、2人ずつ(エリスが見た分はもう一人だけ)の助言委員に目を通してもらうのが次の原則になるのだが、委員らがいつも私からの要旨の到着をじっと待っていてくれる保証もなかった。そこで、もうやむをえない、助言委員へ送る分は発表の可否を通告すべき約束の日を睨みながら、各1人だけに送ることにし、あと1人分とエリスの補完として、全部私が目を通すことにした。これは今まで完全に内緒にしていたことであるが、セッションの分類や会議日程を作るのにはおおいに役だった。論文のタイトルと著者を見れば、その内容はすべて私の頭の中に入ったからである。
 仮設定した日程表だけを90年の4月頃には別途発表予定者に送ったが、自分の発表を別のところに移して欲しいとクレームをつけて来た人は1人だけであった。8ICUSDのオーストラリアの事務局は、誰がどんな審査基準で審査をするのかも公表せず、要旨の審査に加えて、フル論文での審査もしたらしく、予定の日程も遂に事前には送って来ず、参加者が会議中の行動を出発前には決められないということを平気でやらかした。おそらく多くの国際学術集会でもこの種のことが限りなく行われているはずだが、いずれ、真の知の交流か、学者のイベントかに、見極めを求められる日が来るのではないだろうか。インターネットによる在宅型の国際会議やホームページによる研究成果の公開を、国際的な学術雑誌の編集なども含めて、再統合することによって、最初に示唆した第三の型の国際会議が登場しなくてはならない。

各種イベントの工夫
 2ICUSDでは参加者が約100人で、初日夕方のレセプションは、午前に特別講演をしたチャウ(Ven-Te Chow)教授の私邸の大庭園で開かれた。パンチとつまみだけの簡素なものではあったが、すべてがチャウの負担であった。日本ではこんな芸当はできない。
 3〜4ICUSDと進行するに従って、月〜金曜日の5日間の日程がほぼ定形化してきた。開会前日の日曜午後から登録受け付け(論文集や各種参考資料の引渡し)、月曜午前が開会式、その後全員出席の(plenary)特別講演、午後から三会場に分かれて論文発表、セッションの開始、夜はウェルカム・レセプション、火曜の終日と水曜の午前もセッション、水曜の午後はテクニカル・エキスカーション、木曜日終日もセッションだが、夜はフェアウェル・ディナーパーティ、金曜の午前の最終セッションを終わって、あと閉会式である。火曜〜金曜の朝一番にも特別講演を入れた。水曜の特別講演で、ドイツのW・ガイガー(Wolfgang Geiger)の講演中に、メイシアターの大型スライド・プロジェクターの電球が突然切れた。取替えに40分もかかって、これには全く参ったが、聴講者のブーイングがほとんどなかったのでホッとした。
 閉会式では通常、次期の担当事務局長級が課題の説明や開催場所の宣伝をする。これらの経費はすべて登録料に込めてあり、5ICUSDでは同伴者の登録料を1万円にして、上記の催しでは正規の参加者と同格に扱った。論文集を渡さないだけである。
 これと平行して、月〜水曜には同伴者プログラムを用意する。同伴者プログラムだけは、事前に内容の概要をアナウンスして別料金を徴収した。もちろん自由参加ではあるが、水曜の夜の天神祭の船渡御を、事前のアナウンスでも"gala festival"として宣伝した。
 4回目の頃から、チェアーマンという用語が使われなくなり、チェアーパースンというようになった。同じ意味で、レィディーズ・プログラムは同伴者プログラム(Accompanied Persons' Program)に変わった(spouseは使われない)。87年の日米会議では同伴者プログラムを用意しなかったが、EPAの幹部のB.アンダーソン(Betty Anderson)は証券会社に勤めているという夫を連れてきた。70年の大阪万博でNZ政府代表の秘書をしていた私の妻が誕生日祝いをしてもらった時には、私も同伴者として招待された。
 テクニカル・エキスカーションの計画は、大阪府の下水道行政に顔が広かった関大の和田に任せた。これは水曜午後の自由選択コースとして、かなり高度な物質収支監視を成功させていた府の鴻池処理場、東大阪の雨水滞水池公園、府と市の大深度地下雨水トンネルに決まった。それぞれの場所へ出かけるバスなどの便は、全部受け入れ先の負担にしてもらった。
 同伴者プロの担当は助手の八木俊策に委任、近ツリの高橋に相談しながら、彼の女性助手に添乗してもらう条件で、月曜は花と緑の国際博覧会、火曜は六甲山と酒の白鶴博物館、水曜は百貨店めぐりになった。このうち花博行きだけは、阪急吹田から電車に乗せればいいものを、運賃の倹約のためJR吹田まで炎天下を15分も歩かせたため、あとで不平が出た。この年の夏は実に暑かったのだ。テクニカル・エキスカーションから帰ってきた中部ノルウェーのS.トロルフソン(Svein Thorolfsson)は、もともと鬼のような顔相がまさに赤鬼そっくりになっていたのは可笑しかった。
 船渡御観覧の適所として、いくつかの橋へのアプローチを予め案内してあったが、あとで説明するOSGGクラブが中之島の特別席の配分権を多少もっていることがわかったので、外国の代表中XIP相当の人を20人ほど抽出して市川に引率させ、入場券に相当する特別の団扇を持って某所で待っている同クラブの一谷貞雄に目立たないように三々五々近づかせ、団扇をもらって所定の席に着かせる、という手の込んだことをした。トロルフソンも選んでいたのだが、彼は暑すぎるといって辞退した。こういうことをわざわざ書いたのは、豪勢でかつTVの中継なども盛りあがっている祭りのかげで繰り広げられている人生模様があることを、私じしんも教えられたからである。
 これらの準備の中で仕事量が最も多かったのは、木曜夜のイベントだった。3回目(エータ(Gote)川の遡上と古城)も4回目(レマン湖とシオン城)も、ディナーの場所が下船後か船上かの違いはあったが、いずれもクルーズが中心になっていたので、私もこれの真似をして、大阪港のハーバー・クルーズを想定し、船上の演出にブラスバンドを入れようと思って、早くから阪大の研究室出身の草薙信照がリーダーをしているバンドを予約しておいた。このバンドは草薙が卒業した岸和田高校のOBたちのグループで、「草薙信照とたまねぎバンド」といった。岸和田が玉葱の名産地であることにちなんでいる。出演料は全員で10万円だけ、演奏の合間の飲食は会議参加者と同じ、ということで了解をとった。
 それはともかく、どんな船に客を乗せるか。そのうちに情報が集まり出した。90年はコロンブスの新大陸発見500年で、大阪は世界最大級の水族館と昔のサンタマリア号のちょうど2倍の大きさの遊覧船を造るという。水族館のニックネームは"Ring of Fire"で、これが今も大人気の「海遊館」である。これらの企画者は大阪市港湾局で、前局長の佐々木 伸が市の助役になっていて、彼は京大土木の後輩なので、私は梅田で彼に一席を設けて、海遊館への入場をできれば無料にしてくれるよう頼み込んだ。
 サンタマリアの方は新造船の名前の公募があり、結局は同じサンタマリアに落着したが、この船の運行が琵琶湖汽船の子会社の大阪水上バス(株)ということもわかった。私は琵琶湖汽船の社長の重松 徳を彼の京阪電車時代からよく知っていたのだが、すでに他界していて、やむをえず、船内での飲食を含めて正面からの交渉に及んだ。総経費がいくらになったのかはもう記憶も記録もないのだが、アルコールを含めた飲み物はフリー、食事は人数分に見合う寿司桶を適宜配置してもらうことにした。サンタマリアの就航が6月1日という記録が残っているから、交渉は多分4月頃から始めたのだと思う。琵琶湖汽船との関係からか、サンタマリアの造船所は滋賀県にあったそうだ。
 最近の傾向では、会議後のポスト・コンフェレンス・ツアーが組まれることが増えてきている。しかし私としては、もうそこまで手がまわらんわい、と思っていたが、箱根観光や雨水浸透などの東京の施設見学旅行の案が市川らの線から提案された。運よく昔の弟子で住宅公団在職かつ多摩市民の松下 潤から、同市の市制20周年(91年)のプレイベントで国際交流を計画しているから、キーワードを環境にして、この学会の代表を送り込んでは、という案が出てきた。私も多摩の主会場へは顔をだすことにして、藤田昌一と松下に企画を任せ、旅行希望者は追加旅費も含めた登録をさせ、新幹線や観光バスの手配は近ツリに任せた。
 イベントのうちの特別講演には、東京学芸大の小澤紀美子(都市計画)の名が挙がっていて、もう1人を外国参加者から選ぶことになった。こういう時に雨のことだけ喋られたのでは困る。そこでこの旅行に最初に申し込んだイギリスのA.ソウル(Adrian J. Saul)と事前に折衝して、聴衆である一般市民用のレジメを用意すること、なるべくスライドを多く使うこと、英語の講演をゆっくりやること、講演料が市から出ること、などで了解をとりつけた。
 このツアーには30人くらいが参加した。閉会式後の午後7時頃新大阪駅の集合で、この晩は箱根泊まり、翌日が富士山観光を経てバスで東京入り、30日の月曜が東京の団地などの雨水対策巡り、多摩の京王プラザ・ホテルへ入って、31日火曜が多摩イベント、帰りは電車で東京へ、あとは自由行動にした。イベントにはもちろん市長も出席し、市民代表も加わった。全員に揃いの法被、鏡割り、和太鼓、餅搗きなどもあって、外国人参加者にはたいへん喜ばれた。イベントでの挨拶をフロリダ大学のW.ヒューバー(Wayne C. Huber)にさせたが、これは私が突然指名した。
 後日、これらのイベントやツアーの担当者を実行委員ということにした。


(注1) 奥野長晴/現在滋賀県立大学教授。日米の修士号をもつ。かつて東京都下水道局の幹部として、日米/日独の下水処理技術の交流会議などではいつも局長の片腕として国際舞台で活躍、その代わり昇進がやや遅れていた。

 

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