末石月報 てづくりの国際会議(第4章)

秘書の腕前とOSGGクラブ
 以上の記述からは、私ひとりが東奔西走していたようだが、私には実に有能な助手と秘書がいた。この助手は東海明宏で、細かい支出の管理と雑品の手配などをすべて請け負ってもらった。必要な資金をすべて集めた会議参加費で賄うわけにはいかない。消耗品はできるだけ大学の校費でという方針で、研究費の残額を睨みながら支出した。これには、司会者に渡すお礼の扇子や首からぶらさげる式の名札入れ(ご婦人の服に穴をあけない工夫)、さらに机のないホール用のペーパー・ホールダー、レポート用紙、筆記用ボールペン、これらと論文集を入れる手提げ袋なども含まれる。国際会議では、どこでもロゴ入りの特製の鞄を作ることが多いが、この種の袋や鞄が家にたくさん残っていて、いわばごみつくりの典型のようでもある。だから無印良品というわけではないが、一式500円で塾通いの子供がよく持っている手提げを買った。この程度なら、大学の経理課は異議をはさまなかった。
 もうひとつできれば自国まで持って帰ってもらってもよい、という前提で、5ICUSDのロゴ入りの瓦煎餅を1人30枚ずつの紙箱入りを用意することにし、神戸の亀井堂総本店まで東海に出向いてもらった。これはOSGGの会長の入れ知恵である。もちろん、雨と日本瓦の関係を手短に述べた説明書をつけた。この煎餅は、一箱500円くらいだったと記憶するが、これを500人分ほど注文して、あちこち迷惑をかけたはずの、例えば阪急南方駅の駅長室にまで配った。
 阪大での私の最後の秘書は、89〜90年度に事務補佐員という名目で日々雇用の太田多香、神戸女学院大の英文科出身だったが、フランスから電話が入っても第2外国語で習ったというだけのフランス語での応答を助けてくれた。特に彼女の記憶力が抜群で、まだ一度も会ったことのない登録者・論文提出者のことを全部覚え込んでくれ、またマージンをはみ出した英文タイプの修正や、登録者のパソコンによる情報管理などを、助手や院生たちに習ってみるみる自家薬籠中にしていった。太田には、私が会費を支弁した同伴者として出席してもらい、会議期間中の受付の主任をしてもらった。
 もうひとりの同伴者は、妻のかよ子である。彼女は終日、メイシアターの事務局で私の助手をしてくれて、臨時のアナウンス用のタイプ打ちや、時にはトルコの客の喧嘩に割って入ったり、受付からしきりに上がってくる面倒なクレームへの応答もこなしてくれた。自慢ではないが、4ICUSDの時には、友人のためのホテルの客室が約束とは違ったことで、ホテルのフロントと英語で喧嘩して言い負かし、とうとう部屋を変えさせたのには私も舌を巻いた。
 会議の後半には妻の仕事も少し楽になった。木曜の夜のクルーズには浴衣を着て出たい、と言ってくれて、その午後百貨店へ出かけて、浴衣、帯、下駄を買ってきた。事務局の隣の会議室で着替えをして、クルーズ行きのバスでは私といっしょに乗車して、しばらく臨時の案内役も買って出てくれた。
 太田の前の大学の秘書は、甲南女子大国文科卒の直嶋佐和子だった。86〜88年度に在職した。この時期から私の事務局長の仕事がだんだん増えていたので、太田と同様、タイプやパソコンを使えるように鍛えた。当時の大学研究室の秘書には、将来の伴侶探しを目当てにした女性が多く、教授の方も秘書としての訓練をしない人が多いようだった。「□口先生おいでですか」と電話すると、「今日は御¥o張です。」これはまだよい方で、教授がいなければ秘書もいない、ということすら多かった。だが直嶋はそういうわけにはいかず、外国からの手紙の整理などが午後5時までに終わらないと、桜井市の自宅まで3時間もかかるのに、午後8時頃まで居残って仕事を片付けてくれた。
 少し応援が要るなと思っていた矢先に、妻の万博時代の知己の一谷聡子が、阪大工学部のすぐ近くのマンションに住んでいることがわかった。一谷は高校時代にAFSの外国経験もあり、英語やタイプも直嶋よりましなことがわかっていたので、週に1、2度のアルバイトを頼んだ。パソコンは直嶋が指導したようだ。一谷夫婦がOSGG(Osaka Systematized Goodwill Guide)クラブのメンバーだった。彼/彼女らは毎日交代でJR大阪駅のデポ一に詰め、外国客の通訳(英、独、仏、西、瑞、中、韓など)兼ガイドをしているという。会長が渡辺 孟で、彼の英語の名刺には"Takk Watanabe"とあった。受付などを含めて10人のメンバーに交替で応援を頼み、タック会長には数かずの助言を頂いた。特ダネは、天神祭りには韓国の掏摸学校の実習生が大阪に乗り込む、という話であった。
 3ICUSDで知り合ったスウェーデン・チャルマース(Chalmers) 工大のA・シューバーク(Anders Sjoberg) が学長になり、「土木の学生(女性が3割)が日本を夏の修学旅行先にした。貧乏旅行なのでよろしく」という依頼が来たのは、86年の夏だった。瀬戸内架橋の児島−坂出ルート、関空の工事現場ともう一ヵ所という注文だった。新幹線には高いから乗れない、とまで言ってきた。私は阪急交通社とかけあって、ホテルやバスの手配をしたが、添乗員はつけられないというので、やむなく私が代理をする(ついでに橋と空港も見る)ことにし、一谷の裁量でOSGGから通訳を数名募ってもらった。
空港会社にこの申し入れをしたら、前日に通訳の特訓をしてやるということで、専門語の講義を開いてくれたが、本番の日の乗船後はもっばら会社の技術者が英語での説明をしてくれて、OSGGメンバーは学生たちといっしょに大工事の見学に専念していた。まだ空港島本体は姿を現していなかった。これは地下トンネルの場合もまったく同じで、通訳たちは、「大阪の地下でこんなことが進行しているとは!」と感嘆の声しきりであった。この経験から私は、OSCG(Osaka Systematized Civil-works Guide)の提案をした。
 この場合のシステムとは、工事の施工者と市民によるものを意味する。

コンピュータ・セッションの顛末
 さて、コンピュータ・セッションはどうなったか。"Second Announcement"でこのセッションヘの参加を奨励したのだが、希望者は予想をはるかに下回った。そこで最終の案内ではさらに条件を緩め、自分独自の研究成果をコンピュータにパッケージする、使用コンピュータの機種の申告、コンピュータのオペレータを連れてくること、またはコンピュータの動画画面をビデオで集録してきてビデオ装置にかける、などに計画を縮小せざるをえなかった。これでなんとか、半日の2セッションが編成できた。
 参加者がテクニカル・エキスカーションに出ている水曜の午後、市川を監督にして、ソニーの技術者の全面的支援をえて、小ホールで大型のカラー映像投影装置の調整に5時間もかけ、演壇上の数台のコンピュータやビデオの配置、などにスタッフは大わらわであった。ソニーの装置の借上げと技術料を50万円にしてもらい、この額は市川の持っている科学研究費から融通してもらった。
 私が講演セッションに出たのは、木曜午前のコンピュータ・セッションだけであった。講演者の目配せも織り交ぜて、連名の助手がキーボードを叩く会議の様式は、なかなか恰好がよかった。極端にいえば、下手な英語を一言も使わないでもすむのである。
 今なら、ほぼ同額の60万円くらいを出せば、パワー・ポイントという超小型の映像装置を購入できて、学生の卒論などでノートパソコンに発表内容をプログラムしてきて、自分でキーボードを叩きながら、映像に同調した口演ができるようになっている。さすがに情報技術の進歩はめざましいといえるのである。
 私は閉会式で、将来のICUSDでぜひコンピュータ・セッションの拡充につとめて欲しいと述べたのだが、その後の6〜8回目ではまったくその気配がなく、現在は消滅してしまったようである。このことについて、私の後継をしている共同委員会の日本委員が、案を復活させるための迫力ある提言をしてくれることを期待したい。

開会式から閉会式へ−事務局長の出番
 私は自分の出番の最重点を、開会式とハーバー・クルーズにおいていて、その時の発言内容をあれこれ考えて、会期が近づくにつれ一種の興奮状態になっていた。だから開会式で、顔を紅潮させた私を中ホールの舞台の袖で見ていた妻は、心臓発作で倒れるのではないか、と心配したそうだ。既に10年ほど前に、心筋梗塞の経験をもっていたからでもある。
 開会式では司会を私がつとめた。何度も経験ずみではあったが、ブザーが鳴って緞帳が上がり、トップライトを浴びる気分は何ともいえないものだ。
 まず岩佐組織委員長が開会宣言、主催の共同委員会のハレマースが遅参するので代理のマーサレク委員が挨拶、次に榎原一夫吹田市長の歓迎の辞をもらった。この日本語を私が通訳した。吹田の語源は水田(すいた)という説明があり、「岩ばしる垂水(市内の地名)の上のさわらびの 萌えいづる春になりにけるかも」が出てきて、万葉集の解説も織り込んだので、全体として間延びしてしまった。そのためか、外国人の一部が土産の瓦煎餅をボリボリやりだした。この後で私が一般的注意事項として、昼食のことや水曜の船渡御当日の掏摸の話などをしたのだが、期待した笑いがあまり起きなかった。外国都市と姉妹提携をしているような都市の市長は、すべからく英語のスピーチくらい自分ですべきである。市長の言葉は、2年後千里リサイクルプラザに出向した徳野暢男の代筆だったことが偶然わかった。
 夕刻のレセプションで私はおとなしくしていたが、開始時刻が近づいて、2階のロビーからレセプションホールのある3階へ続々と上がってくる客を見て、とっさに私は妻と並んで階投を上がりきった場所に立ち、歓迎の会釈をしながら、どんな連中が来たのか頭に入れた。英語は本場仕込みの江藤剛治(近大土木)夫妻が司会を引き受けてくれたが、スピーチはやっと駆けつけてくれたハレマースだけにした。ホールは満員で、外の廊下も屋上庭園もお客で溢れかえった。OSGGやアルバイトの学生たちも参加させた。頃合いをみて、かねて指示しておいた太田多香にグランドピアノの演奏を始めさせ、それを受けて共同委員会のフランス代表のM・デボー(Michel Desbordes)を引っ張ってきて腕前の披露をさせたが、話し声があまりにも大きくて、ホールの端まで演奏はとどかなかった。いつもそうだが、日本人だけで固まっている様子はありありだった。
 さていよいよ木曜夜のハーバー・クルーズ。予定は、午後5時定刻以後にセッションを延ばさないようにチェアパーソンに申し渡し、市役所の駐車場に待機した近鉄バス8輌で天保山に向かい、6時には海遊館に入り、7時頃にはサンタマリアで出港、9時頃に帰港、であった。バスにはそれぞれ実行委員会の面々を分乗させ、好きなように話題を提供してもらった。ところがまたまた予期せぬことが起こった。
 バスの運転手たちが予め相談していたのだろうが、思っていたコースを走らないのだ。新御堂筋を通り越し、やっと阪神高速に乗ったのに、今度は東へ東へと走って大迂回をし、港に着いたのはもう7時に近かった。そのため私が乗っている最後尾の1号車に添乗してもらった寶 馨(京大土木)は話題が尽きてしまい、やむなく浴衣姿の妻が代役にたった。さらに何たること、海遊館の前は入場待ちの一般客が千人くらい犇めいていた。これは、私がまだ正式開館前のガラガラの時に2度見学させてもらったのが誤算だったのかもしれない。入場の誘導引率を一谷貞雄が申し出てくれていたので全部任せたのだが、一応優先入場は認めてもらったものの、割引の交渉や人数の確認などをしている暇はなく、全員を押し込んで最後に入った妻と私は、とにかく「急げ急げ、船が出るぞ」と尻を追いまわす羽目になった。でも、フランス、イタリアなどラテン系の人は、そんなことに無頓着で水槽の前にへたりこんで身じろぎもしない、という構えだったのには閉口した。やっと1時間余り遅れの出港になったが、その時にはもうすし桶の握りずしは全部平らげられていて、残っていたのは胡瓜巻だけだった。たまねぎバンドも演奏を始めていて、船内はすでに相当盛り上がっていた。
 "This is Captain Sueishi speaking …"船倉へ降りた私はマイクを借りてこう切り出したが、あと何を喋ったか覚えていない。道路の大渋滞のための遅延の詫びと、港内運航規則のため、所定時刻に帰港せねばならぬことなどだったろう。しかしひとつの見せ場ができた。甲板に大勢集まっているらしいと聞いて行ってみると、サンタマリア号がマストを折らずに南港大橋の下をくぐり抜けられるかどうか、と皆固唾をのんでいたのだ。こんなことも予期していなかった。無事通過。歓声と拍手が起きた。第7回担当のドイツのF・ジーカー(Friedhelm Sieker)が「ドイツではこんなことようやらんぞ!」と叫んだ。
 9時ちょっと過ぎに天保山に帰着、帰路につく客のために、岸壁で演奏を続けてくれと草薙に頼んだら、気安くOKをくれた。最後の曲が"Let It Be"、しんがりの20人ほどが相手かまわずダンスに興じた。妻もそのうちの1人になった。
 私は全然飲み足らなかったので、東海とアルバイトの学生たち、それに太田と妻と、胡瓜巻の桶を持って、2、3軒飲み歩いた。どこも若者でいっぱいだった。タクシーで南方の仮寓に帰ったのは深夜の2時頃、その車で須磨まで太田を送ってもらったが、彼女は翌朝も何事もなかったように、ケロっとしてメイシアターヘやってきた。
 閉会式(小ホール)は市川に任せた。彼は会議全体の到達点をフローチャートにしてノートパソコンに要領よく仕上げていた。また太田に花束を贈ってくれた。マーサレクがナイアガラ・フォールズの宣伝をした。そして最後に、市川が突然私を指名したので、思いつくままにOHPで図を書きながら、次のように締めくくった。
 「科学の世界の頂上を見極めることはできないが、そこに至る4つの山脈は、socio-human,logico-mathematical,chemico-electronics,geno-medicalである。私たちはこの山脈によじ登ることを諦め、前2者の間の谷底に安住しているのではないか。American Geophysical Union(全米地球科学連合)の1分野に水文学も入っているから、ノーベル賞級のBowie Medalのチャンスがあることを覚えておいてほしい」。そして"see you again, Aufwiedersehen, au revoir, 再見、and sayonara"と再会を約し、それから"You are dis-missed."これは中学で習った"The Last Lesson"の最後の句で、私の好きな言葉、いつか使ってやろうと考えていたのだ。
 閉会式のあとの夕刻、学生たちには5万円を渡して梅田のミュンヘンにでも行けと指示し、組織委員会と実行委員会のメンバーを千里山の日本料亭・柏屋へ招じて、感謝と打ち上げの会を開いた。ここを中座した私は、柏屋の車で新大阪駅に急行し、東京ツアーの見送りをした。
 もう1ヵ所内緒にしていた場所がある。私には初詣などをする習慣は全くないのだが、88年から毎年、91年まで、京都建仁寺前の十日戎に参詣して、千客万来を祈願し、縁起物を買ってきて研究室に飾っておいたことだ。最初は500円の小さいの、次に千円、二千円と大きくして、お礼参りの91年にはお賽銭だけをはずんだ。このことを知っているのは太田と、いつも戎神社に同行してくれた妻だけである。

エピローグ−次の10年も失われるか
 さて収支決算はどうなったか。詳細な一覧表を第9回担当のヒューバーに送ったのだが、その後コンピュータを更新したため、今は古いディスクを読みだすのがむずかしい。原則的には、参加者の登録料と寄付、助成金、あとは大学研究費で賄ったので、おおよその合計額は1900万円くらいである。豪華とはとてもいえなかったけれど、むしろ簡素で参加者の好意的な賛辞をたくさん頂いたと自負している。
 読者にはどうでもいい人名をたくさん挙げたのは、これらの人たちへの私からの謝辞のつもりである。それと薄れかかった記憶を記録しておくことでもあった。
 8ICUSDから帰ってすぐ、妻が『月刊下水道』の特集に「同伴者から見た雨会議」を書けという注文を受けたので、題目を「2002年には豪華客船でポートランドへ!?」とつけてやった。毎日が日曜日という状況になっていることを期待した世界旅行の一環という意味もあるが、もう完全にUSDを卒業したい(アプローチはシドニーでの私の発表のように方向転換をすべきである)ことと、コンピュータ会議のことやチマチマした研究ばかりを皆がしていないか、を死ぬまで見張っていたい、という気持が錯綜しているのが現状である。
 2年に1度という国際学術会議が多いのだが、これでは1回終わったらすぐ次の準備を始めねばならず、結局、参加することに意義がある、という屁理屈をつけて、去年も今年も来年も、同じ道を歩き続けねばならない。そして、あっという間の10年が過ぎ去ることだろう。その挙句、大過なく仕事を全うできました、という常套句で引退する人生の侘しさよ。何かよい案があれば、ぜひ教えて下さい。


 

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