末石月報 てづくりの国際会議(第2章)

てづくりの急所−味方の結束
 てづくりとはいっても、何もかも自分で引っ構えるわけにはいかない。周辺から出てくる文句に対して言い訳ばかりしていたら、自分の身がもたない。だから、簡単に「一歩前へ」とばかりにはいくまい。
 最初の1ICUSDのことを私は全然知らなかったのだが、時期的にはこれが終わった頃、イリノイ大学の水理学のベンチー・エン(Ben Chie Yen)教授から、2ICUSDを同大学で81年に開くから出てこい、さらに日本でも開いてほしい、という手紙が来た。またこの会議をIAHR(Int. Assoc. for Hydraulic Research =国際水理学会)とIAWPR(Int. Assoc. on Water Pollution Research =国際水質汚濁研究会議)の共同委員会の主催にしたいという構想が述べられていて、私の京大学生時代の同門の兄弟子(岩佐義朗=当時IAHRの会長)の名前が引用してあった。いつも割とクールで口も悪い岩佐の本音は、日本で国際会議なんかやったって、誰れも褒めてくれへん、であって、だが彼が国際学会長である立場では、すでにいくつかの組織委員長をやっていることは確かである。彼に質問したところ、IAHR会議の時にエンがICUSDのことで声をかけてきたので、まあそれもよかろう、という生返事をしただけだ、ということだった。日本側の受け皿として、岩佐は京大の防災研究所のK教授の名前を出したが、Kが断ったのでお鉢が私にまわってきたらしい。防災研究や水理学では、USDはそれほど重要視されておらず、私じしんも学位論文の一部に加えた61年以来、USD研究をもう卒業していたのだ。
 さて、どうするか。とにかく新しい視点を加えて、もう一度ネジを巻いてみることにし、立命館の山田 淳、関大の和田安彦らに声をかけて、81年の論文を用意するよう依頼した。2ICUSDの論文発表者(連名も含む)は総数約100人、日本からの参加者はわずか10人だった。これ以後、私がモノした数本の論文は、発想の点でそれぞれ創意に満ちているのだが、この手記でこれらの内容を詳述することは無意味なので割愛する。
 イリノイの初日、カフェテリアで昼食をとっていると、早速エンが寄ってきて、84年の第3回を日本で受けてくれという。が私はすでに退職前の90年に照準を合わせてアメリカに来ていたので、必ず引き受けるが、いつにするか、ちょっと考えさせよと言って、了解をえた。課題は、統一テーマを何にするかということ、船頭を増やさないこと、東京がいいか大阪か京都かということ、同時通訳を入れないという前提で日本人の英語の下手なこと、円高のこと、開催時期の都市イベントの目玉、等々であった。
 エンはその後すぐ、私も含めた数人の国際代表の連名の論文を書き、IAHRとIAWPRのUSDに関する共同委員会を旗揚げする趣旨を述べ、特に、この委員会が先進国間の学術交流だけでなく、ハード的にきわめて弱体な最貧国や途上国の支援にも力を注ぐことを宣言した。この時の著者群が90年までの共同委員会のメンバーとなり、エンが初代委員長になった。日本での受け入れを公表した84年には、デンマーク工大のP・ハレマース (Paul Harremoes)が、IAWPR会長と兼務で委員長になっていた。
 私は身軽な国内組織委員会編成の必要性について岩佐の了解をとり、彼を形式的な委員長に据えて、市川 新(東大都市工)、竹内邦良(山梨大土木)、虫明功臣(東大生産研)、盛岡 通(阪大環境工)を委員に、私は事務局長(Secretary General)に専念することにした。こうして、組織委員会の開催も年1回くらいにし、ほとんどの原案を盛岡と相談しながら事務局案として私が率先して練った。なお共同委員会のメンバーを国際助言委員として、提出論文要旨の分担審査を依頼した。

内容の斬新さを競うもの
 岩佐委員長は、京大会館の二部屋を使えばよい、と示唆した。もし京都なら、祇園祭の山鉾巡幸(7月17日)の週にぶつけるのがベストとなる。ところが京大会館にはホールが二つしかなく、一室の定員は100人以下だし、同時に三つのセッションを開く必要が予想されたので、この案は諦めてもらった。京都の別案として私は、嵯峨野近辺のお寺の本堂を借りて、胡座をかいて会議という案ももっていた。この場合は、わざとシトシト雨の降る梅雨の時期に、という選択である。しかし一日70万円もかかると聞いて、これもパー。阪大の教室は夏休み期間ならタダで使えるのだがあまりにもきたない、私の目当ては85年にオープンする吹田のメイシアターだった。二階の大口ビーには、黒雲から雨を降らす大きなモニュメント(彫刻家/池辺 晋)があることも見ていたからである。
 しかし委員の市川は東京開催に拘った。多摩の大学セミナーハウスを使えば、同じ地区内に分散建築されている宿舎棟も使えるから、一種の住み込み型会議にできるというわけだ。ただし、町へ出かけたい人には不便このうえない。結局虫明が、事務局長の地元案を受け入れるべきだ、という裁定で、私は面目を保てた。祇園祭の週は、15IAWPR
が京都国際会館で、ということが伝わってきていたから、必然的に吹田は天神祭の週ということに落ち着いた。
 しかしこれだけでは、世界各地の学者たちに内容の目新しさを訴えることはできない。雨水制御に関してアジアで最初に開く国際会議だから、インフラ未整備の途上国支援の課題を中心に、と謳っても、先進国の多くの学者がこういう方面に視野を開いているという証拠もない。途上国の学者からも、「わが国における雨水問題の現状と課題」というような気の抜けた論文が出てくるのが関の山である。私はコンピュータの使い方に目をつけた。当時欧米では、雨水を扱う水文学の原理こそ同じだが、流下経路にそって水量や水質を追跡していく方法論にコンピュータを導入することが流行し始めていた。特にアメリカでは、いったん雨水も汚水も同じパイプで流す合流式下水道を普及させてしまったために、降雨初期の雨が地表面の堆積汚濁物を洗い出して、これをそのまま公共水域に吐き出してしまうことに対する対策として、EPAが膨大な予算を投じて土地利用別の面源汚濁(家庭や工場からの点源汚濁に対置した表現)を調べあげつつあり、これらのデータと降雨条件にもとづいて、下水管内の水量・水質の変化を1分ごとにシミュレートできるSWMM(Storm Water Management Model = EPA、フロリダ大学、コンサルタントの合作)を71年に開発、これを国内全般に普及させようとしていた。
 この傾向に対抗していたのがイギリスとフランスで、場合によっては都市単位でSWMMもどきのモデルを作成し、もっともらしい頭字語で命名していた。原理的に発想の転換がないのにデータの精緻化だけを追い求めるやり方を私は好まないので、この種の流行を追随することは一切しなかったが、日本の下水道計画の現状は?と問えば、全くお寒い限りで、やや辛辣すぎるかもしれないが、自分のパソコンを事務所に持ち込んで仕事をするのは御法度という風潮すらあったのだ。73年に弟子の和田安彦が合流式改善方策のための大阪府の要請を受けたので、私も協力してやることにしたが、和田が口を酸っぱくして宣伝につとめるSWMMと同等の方式の適用を、府は研究成果としては受け入れても、実現のための工夫をという意識は、行政組織的には出てこないのである。
 こういう状況の盲点をついた私の案は、世界の研究者各自が、自分のまたは自国のモデルをコンピュータにパッケージ化したものを会議場に持ち込んで、日本のある特定都市の流域特性や雨水データを分析して、対策を提案させる、いわばコンピユ−夕・セッションを開きたい、ということであった。この案は、結果的にはかなり姿を変えたが、当初の国内組織委員会でも同意を得、第5回を日本で、という正式のプロポーザルをした(84年の3ICUSD)共同委員会の席上でも了承を得たのである。
 これ以後、私じしんのてづくりの仕事が本番に入った。印刷は出入りの業者に頼んだが、第5回の"Preliminary Announcement"を自分でタイプした。これを数百部第3回の会場でばらまいた。90年への参加の意思と論文発表の希望の有無を返事してもらい、これで参加候補者の名簿を作り、中間で一度"Second Circular"を流し、87年の第4回には"Final Announcement"を持ち込む算段にした。

メイシアターのこと
 メイシアターの正式名称は、吹田市文化会館で、阪急千里線の吹田駅前の市役所の向かいにある。東畑建築事務所の設計による。大(1400席)・中(600席)・小(150席)三つのホールと研修室(240席)の他、会議室、練習室、展示室、レセプションホール(立食で約250人)などが揃っていて、大ホール以外を全部借りたいと考えた。ただ難は、一階と二階の二カ所あるレストランが狭くて、会議参加者の昼食が一度に捌けないことだった。
 それともうひとつ、会館が市民利用を前面に出しているため、利用日の三ヵ月前から申し込み、一カ月前に抽選で決定、が建前になってた。しかし会館は単なる貸し座席業ではなく、オペラや演劇など自前の演し物も開いていたから、いつも市民用にオープンになっているはずはない、と見当をつけ、91年以後の私の転進のため当時から交渉をもっていた環境部長の能智 勝に裏取引を依頼した。会館の運営母体の財団の「寄付行為」によれば、利用目的が教育関連であれば半額割引になり、五日間50万円ていどですむこともわかった。ついでに87年の「日米リスク・ワークショップ」の五日間も押さえてもらった。
 当時の会館の総務課長は長村 実という人で、役人にしては融通の効く人物だったから大いに助かった。色々無理をいうこともあるかと思って、私は86年頃から、せいぜいビール2ダースくらいだが、いつも自腹を切って夏と冬の届け物を欠かさなかった。これを必ず事務所へ持ち込んで、「皆さんで」という言葉をそえた。いつも気安く受けとってくれたので、気分的にも楽だった。また、一階と二階のレストランの共通の店長が山本 慎一というアサヒビールから出向の人で、小さな打ち合わせの会議を必ずここで開いたので、彼ともだんだん懇意になった。
 残るのは昼食の問題とホテルである。私は折りを見てはメイシアター近辺の大小の食堂へ足を運び、メニューや値段をチェックしたり、弁当づくりができるかどうかの打診などもした。市役所の地下食堂への臨時客の予告も怠らなかったが、最終的にはレストラン・マップを作って希望者に配るしか手がなかった。この点、大学の教室を会議場にする(2、3、4回)と、長蛇の列ができることは避けがたいが、学生用のカフェテリアを使うことで解決できたのだ。
 ホテルは近ツリの高橋 徹と相談して、Aクラスは梅田の新阪急、中津の東洋と新大阪のワシントン、Bクラスに南方のコンソルトとチサン、南千里のサンルート、Cとして江坂のサニーストーンなどを選んだが、いずれも電車の便がよいとはいえない。割り当てたホテルからの詳細な道順を案内資料として配ったが、例えば東洋の滞在者からは、「こんなルートをひとりで行けるもんか」という苦情が出た。そこでやむなく初日だけは学生を案内役にして集団移動の方法をとった。さらに、阪急の南方駅は重要な乗換え駅だが、電車の行き先を示す電車じたいや駅の表示にも英文がなく、これは吹田駅でも同じである。駅長室に掛け合っても暖簾に腕押し、本社の運輸部にコネはあったが、「ケチ急」(東京人がつけたニックネーム)から抜本的な対策は出ないに決まっていた。辛うじて吹田駅だけに、メイシアターはこちら、という臨時の張り紙を出させてもらつた。当時の地下鉄御堂筋線の西中島南方駅にはエスカレータがなく、前にコンソルトに泊めた外国人女性に、「重い鞄をもってこんな階段が登れるか」と叱られたこともあった。

円高問題と資金の手配
 さて一番頭を悩ませたのは、総経費の見積もりと会議登録料の決定であった。国際旅費の支弁は、各国や大学の事情で千差万別だろうが、登録料(参加費)は参加者が自前で支払うことがほぼ世界的に定着していると考えてよい。だから登録料をいくらにするか、これを会議経費のどの部分に充当するかが、参加者数に影響をすることは間違いない。
 日本からは、欧米のどこに行くにも航空運賃が安くないのが問題だが、対$の円が高いと参加費の支払いは楽になる。外国から日本に来る場合は逆に、円は安いほうが客を呼びやすい。今度の場合、かなり早い段階で、登録料は国際通貨になりかかっている円で4万円と、組織委員会で取り決めたが、さて登録開始時期の90年初めに、円$レートがどれくらいになるのかの目算を、三年前につけるのは不可能であった。87年には、円の高値は120円以下になっていたはずである。私の頭には、124円/$という数字が記憶に残っている。
 それまでの登録料はだいたい250$くらいで、日本円では4万円ていどを支払っていたと記憶する。根拠はあまりないのだが、納入期間の為替レートが148円/$になればいいのにな、と考えていたところ、何たる天佑神助?、ほぼこの額まで円が値下がりしたのである。おかげで、どこからも参加費が高いという苦情は出なかった。ちなみにシドニーの第8回では、会場は豪勢なヒルトン・ホテル、参加費は1,000豪$(約8万円)、しかも参加予約の際支払った100豪$は論文審査科にすりかわって、返還もしてくれず、正式のイベントもいちいち別途会費が徴収されて、会期中にもだいぶ苦情が出ていた。第6回も会場はシェラトン・ホテルだったが、カナダの事務局長J・マーサレク(Jiri Marsalek)が外部資金をかなり集めたようで、平均的な登録料の割にサービス満点だった。
 私も同じ考え方で、外部資金の必要を認めていた。しかし組織委員会の役割に資金集めを課すわけにはいかない。国際的によく使われるのは、関連技術会社や出版社の展示コーナーを設置して、この出展会社の資金協力を求める方法である。それから、関連諸学協会から応分の協賛金を仰ぐことも多い。この場合には、会議開催そのものをこれら学協会との共催として、アナウンスメントや論文集の表紙に共催団体のロゴマークを入れるなどの配慮が要る。日本で後援を依頼するときは、名儀使用を申請して許可されても補助金は全然ないのが普通である。
 私は昔から民間企業からの寄付集めが嫌いであった。記念行事的な催しにはいつも寄付集めの発起人会ができ、この段階で、企業規模など横並び型の一種の格付けが行われるのが日本の慣行である。こういうことに時間を割かないで、メイシアターを安く借りるような工夫で乗りきることにしたかった。だから、展示出品の案内もやめる、寄付は私個人に資金を出してくれそうなところだけに依頼をすることにした。
 この過程でわかったことは、「わが社は政治資金の寄付も含め、年間総額600万円以上は出さない」というところや、対応した役員のランクで出捐上限額を決めている会社があるということだった。こういうことで、雨とは直接の関係は全くないのだが、200万円お願いしたK製紙からは50万円だけ、50万円お願いしたN食品からは45万円というのが外部寄付の総額である。
 後の頼みは、文部省管轄の日本学術振興会や日本万国博記念協会への国際会議開催補助金の申請である。両者とも補助金の支出枠と金額に細かい規定があって、招聘者の実名を挙げた外国人の旅費とか、消耗品費など、手続きは簡単でも申請書作成の面倒さの割に、査定結果がどうなるかわからないのが問題だった。結果的には、前者(学振)の補助を約100万円得たけれど、万博協会へは申請時期を誤って失敗した。
 87年の日米リスク・ワークショップの時も、同じような苦労をした。アメリカの学振に相当するのがNSF(National Science Foundation)で、アメリカ・チームのリーダーだった河村和彦(バンダービルト大学)にNSFへの助成申請書を見せてもらったら、A−4で100ページも細々と書き込まれていたのには驚いた。しかし申請が認められたら、ほとんど満額出るということだ。学振へはB−4の所定様式1枚ですむかわりに、必ず申請額は削られるのである。河村がアメリカでやっていたリスク研究には、日本企業もかなり出資していて、○○会社へ寄付を頼んでみよ、という助言まで来たので、そのうち懇意な役員のいる会社に早速打診したが、「リスクでは研究費は出せない、安全目的なら出すが」というつれない返事、これは日本の企業が日米の産学共同を差別化している証拠であった。
 この時はタイミング的に、阪大の創立60年記念資金(これも関西財界の寄付金と教員の出捐)への申請ができた。この配分が部局長会議で行われるので、「日本でのリスク研究のフロンティア開発」ということを藤井克彦学部長によく説明をしておいたら、首尾よく200万円の配分を得たのだが、後日学振の50万円も決まったことがどこからかばれて、二カ所から補助をとるのは違法だと、150万円に減額されてしまった。この合計200万円のかなりの部分は日米の主参加者の旅費・滞在費に当てた。今でこそ事情は変わっているが、当時は航空旅費は正規運賃を見積るようになっていた。河村は、各人にいくら支払ったのかの詳細の報告を私に求め、各々が実際に支払った割引運賃との差額を取りあげてしまい、チーム共通の資金にしてしまった。
 この時はアメリカ側からいろいろ強い要請があり、一年前に大阪で主要メンバーによる打合せ会議を開け、アメリカ側の旅費は自前で用意するが、接待は日本側で、という意味深な要求もきた。私がどのていどの資金源を動員するかを試されているな、と理解したので、会議初日を一般公開の講演会にし、これを、60周年記念の阪大と朝日新聞社の共催にして、同紙で大きく扱ってもらおうと考えた。末石研究室が朝日新聞の企画部とよい協力関係をもっていたことと、部長級には私の飲み友達も多かったので、打合せ会にはリスクに関心があって英語の達者な若い記者にも出てもらうことにして、同社の靭寮での接待費を全額負担してもらうことを、整理部長の高橋邦輔に頼み込んで快諾をえた。
 この講演会は、朝日の5×10センチくらいの案内記事のおかげで、メイシアターの中ホールが超満員になる盛況だった。午前はやや短い英語の講演二本、午後は日本語で二本というスケジュールにしたのだが、終日座も乱れず、フロアからはほどよい質問も出た。

 

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