末石月報 ドイツ混浴サウナ探訪, 1977 (2)

さながらNudist村
 こういう宿題は僕の招聘教授としての仕事には含まれない。しかし自分で該当場所を探して出かけることは至難の業。場所をみつけたとしても足がない。Dortmundの市電やバスがどこを走っているのやら、そういう調査をやっていると観光旅行に来たようなことになる。でとりあえず、ちょっと落ち着いてからKarpeと一杯飲んでいるときに、こんな仕事を「哲学者」から請け負ってきた、ということを告げ、機会があれば、と頼んでおいた。しかし催促は一度もしなかった。
そして当日突然、Karpeの助手たちから声がかかった。3〜4人が同道してくれたのだが、それが誰だれだったかを覚えていない。最初の歓迎会のときに無理してドイツ語をしゃべりいきなりhighになったので、研究所の個人をきちんとidentifyせず、その後も僕は助手連中とは別室に居たので、当日も、Dr. W. Kreisel(現在、WHO神戸事務所長)がいたというかすかな記憶があるだけである。
更衣室は男女別々。そこではタオルを貸してもらえるのだが、次の100m2くらいの部屋(サウナの控えの間のようなところ)は男女共用、ここでは食事もできて、中央に大きな円形テーブルがあった。タオルを腰に巻いている人もいたが、その必要はなしで、後刻ここで夕食をとったときも、フリちんで過ごした。
この次がサウナとプール(5×9mくらい?)の空間。この中ではタオルも手ぬぐいも一切禁止だ。つまりnudist村なのだ。昔TVでnudist村の映像を見たことがある。男女とも背中を向けていたから分からないが、もし男性がある女性に欲情したらどうなるのかな、と心配した。幸か不幸かこういう心配は全く無用だった。
サウナでは蚕棚に約30人が寝転べるようになっている。中に入ると男女の裸体が横からマル見えである。いやでも目に入るのは、男性の包茎、たぶん仮性だとは思うけれど、昔から仄聞していたのは正しかった。女性の観察をしげしげとするわけにはいかない。覚えているのは棚に寝ている女性はだいたい20〜30代で、ほとんどがmushroom cut、当時の流行だった。
僕の連れは皆、ちょっと冷たいプールにザンブと飛び込んだ。でも僕は冷水に入ったとき心臓がキューッとしたことがあったので安全のため飛び込みは自制した。
途中で誘われて食事をしたが、そのときはもうnudismに平気になっていて、素っ裸で過ごした。しかし今思い出そうとしても、プールの内装や天井のことをよく見ていなかったし、夕食に何を食べたかもわからない。

Baden Baden
 日本語になおすと、風呂風呂というような地名である。Strasbourgへは行ったが近くにBaden Badenがあることには気づかなかった。
この原稿を書き始めてすぐ、作家の多和田葉子が、Baden Badenについって『日経新聞』9月16日付け朝刊に短いルポを書いているのを見つけた。風呂場の中はやはり完全にヌードで、 白衣の女性に指揮されて、一つの浴槽に10分ずつ合計3時間かけて巡る、いわば健康浴なのだそうだ。多和田は、禁断の木の実を食う前のAdamとEveのような気分だったという。AdamとEveがイチヂクの葉で前を隠したのは、知恵の実を食って裸を恥ずかしいと考えたからだが、先端の知恵が到達する科学の世界では、すべてを徹底的に裸にするnudismは、別名reductionism=要素還元主義といい、裸体美などは通り越してDNAになってしまっている。
彼女はそれ以上の考察をしていない。僕はとてもじゃないが、AdamとEveの心境は味わえなかった。橋本峰雄にどんな報告をするかで頭はいっぱいだった。
4月になって一度妻が3週間ばかり訪ねてきた。Karpeは妻にしきりに、サウナへ行こうと誘っていたようだが、妻はyesとは言わなかった。Karpeがなぜ妻を誘ったか。僕の推測はこうである。誰からかは忘れたが、ドイツでは日本女性の割れ目が水平になっているという噂がある、ということをドイツ行きの前に聞いていた。Karpeはそれを確かめたかったのだろう。

                        [末石月報のトップへ]