末石月報 味覚の記憶と記録

 以下は、五感の環境の基本ともいうべき「味覚の記憶と記録」です。これをキッコーマンの「おいしさの記憶」コンクールに応募しましたが、見事ダメでした。なぜ?という反省を、3月2日のブログに書きました。

僕 の 七 珍 味
 子供の頃はよく腹をこわし、戦中戦後の食糧難、そしてその後の経済発展につれて不自由なく食べられるようになった時代、それぞれに美味しいと思ったものは変わってきた。しかしグルメではなくただの大食漢だった僕も、後期高齢者の仲間に入って最近はとんと食べる量が減ってしまった。その時々の社会情勢、自分じしんの体調によって変わってきた「おいしさの記憶」を並べてみよう。
 余命がだんだん少なくなってきたこともあって、これまでの人生で美味しかったもの、不味かったもの、などを記録しておきたいな、と考え始めるようにもなっていた。そこへKIKKOMANのエッセイコンテストの案内が出たのは偶然ではないような気がした。
 最初から予定していた「三つの美味」は、ふぐの肝、生のうに、鯨の刺身である。どれも初めて口にしたときの舌のとろけるような味はとても文章では表現できない。
 ふぐを奢ってくれたのは昔の勤務先の同僚で、1965年頃のこと。ふぐ毒のことは知ってはいたが、口にいれるのを躊躇はしなかった。子供時代には瓶詰めの塩辛のうにしか知らなかったが、1970年代の中ほど長崎で旧友と再会、すし屋のカウンターで、僕はそれが生のうにであることを初めて知った。今はどこででもお目にかかれるが、回転すし屋が増えてから、干からびたうにが増えたのはなさけない。鯨の刺身は鮪よりはるかに上だ。これも1960年頃に初体験、尾鷲でのこと、ある大会社の席だった。これはいったい何ですか、と口をついて出た。
 こういう記憶を引っ張り出していると、食通ではない僕でもいろいろの味経験が連鎖してくる。ただし若いときには、仕事上のつきあいでご馳走になったことのほうが多かった。
 そういう経験の中でも、鬱陶しい場合と「わが意をえたり」という時の両方がある。京都の祇園近くの料亭で少し堅苦しい文化人と同席したとき、著名なSF作家がいて、彼の博識は夙に有名ではあるが、出てくる料理にすべて講釈をつけたのにはいささか辟易した。脳の味覚中枢の働きが妨げられるのだ。逆に僕の専門性が発揮できたのは環境問題。大阪西区の料亭で紙鍋のお座敷てんぷらをご馳走になった。味はまさに極上なのだが、あまりにも透きとおった天ぷら油を見ているうちに思わず、「この油は次にどうするのですか」と板前さんに聞いてしまった。すぐに「もう一度使ってから阪急百貨店の食堂へ行きます」と答えが返ってきた。なるほど、次はフライなのだ。百貨店の食堂では天ぷら料理は出ない。その後廃食油の回収が叫ばれ始めたが、まだかなり透明の食用油を出してくる主婦が多いのには驚いた。
 味覚とは食材と調理法だけで決まるのではない。しかし奇をてらったテレビの料理番組が多すぎる。試食人たちは本当に確かな味覚の持ち主か?たとえ不味くても美味しいと言わねばならないだろうし、ねじり箸や箸を垂直に口に入れる無作法も目につく。ドイツの料理番組は素敵だった。兎や鳥の狩りや豚の腸詰つくりから始まって、一家をあげての料理づくり、やがて客たちが集まってくる。宴が終わると楽器と歌の登場である。この間番組は3時間にも及ぶのだ。
 ヨーロッパでの味経験は一風変わっている。ミュンヘンのHofbraeuhaus(ホフブロイハウス)は1920年2月、ヒットラーが大集会を開いた場所で、1000人収容だという。1977年4月雪がちらつく寒い日、妻とここへ入った。週日の昼間というのにほぼ満員で、人いきれでホールの奥のほうは霞んでいて見えないくらい。ここへ来たら、ラディを注文せよと聞いてきた。大根を螺旋状に切った、地面に穴を穿けるオーガーのような形だ。少々の塩味がついていて、あと白ソーセージがそえてあるだけ。でもナントも旨いのだ。ビールの味と合っていることももちろんだが、ひっきりなしに聞こえるnoch einmal prost! (もう一度乾杯)の声とまで歩調をあわせているようなのだ。
 その後二度ドイツへ行ったとき、百貨店の台所用品売り場を探して、ラディメーカーを合計五つばかり買い、これぞという友人への土産にした。ただし日本の大根は水っぽすぎて、ラディづくりもしにくく、そして味も落ちるのが残念だ。
 ミュンヘンからの帰途パリに寄り道した。フランス料理が目的ではない。パリからドイツへの帰路の列車内の昼食に、フランスパンのバゲットを買って、ハムとチーズのサンドイッチを妻が作ってくれた。6人掛けのコンパートメントに乗り込んで昼になり、サンドイッチに齧りついた。これがなんと旨かったことか。向かいに座ったフランス人の家族もやおら同じものを取り出した。目と目が合ってニコッと笑った。
 歳をとるに従って生活も少しは楽になり、いわゆる食べ歩きもできるようになった。でも味覚には大きな落とし穴もある。還暦になった年、お祝いのパーティーもすんで一段落したあと、突然舌の味蕾が不調になった。何を食べても味がないのだ。だから妻にはなるべく刺激的な味付けをしてくれと頼んだ。脳のどこかが詰まったのだろうか。このとき精密検査をすればよかったのかもしれないが、数週間で味が戻ったので検査を受けなかった。ここに詳しく書く必要はないが、それ以後しばしば脳梗塞の前兆のような症状が出始めた。
 ここまで書いているうちに、妻の手料理にほとんど触れていないことに気づいていた。いろいろ思案してハタと思いついたもの、それはすずきの塩焼きである。すずき(鱸)をそんなに頻繁に欲しいわけではないが、年に2〜3回かな、そろそろ食べたいなと思っていたら、いつも先手を打って食卓に出てくるのだ。以心伝心などというキザな表現は当たらない。こういう旬の食べ物を味わう一種のサイクルを夫婦がimprintしているのでは、と思うのだ。
 「鱸」をインターネットで検索してみた。汽水域の魚とある。そう、宍道湖の七珍のひとつだった。宍道湖の淡水湖化に反対する仕事をしたことを私は誇りに思う。ついでに「鱸の塩焼き」も検索した。塩焼きにはすだちと醤油を加えたり、また鱸の炊き込みご飯もある。これらは未経験なのでいずれ試してみよう。

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