末石月報 「臨床哲学」って何?

2008年10月13日
毎日新聞大阪本社 「読ん得」ご担当 大 槻 英 二 様
末 石 冨 太 郎

京都市在住の読者です。去る10月6日夕刊の「読ん得=阪大総長鷲田清一氏」について意見を申し述べたく存じます。僭越ですが、記事内容は非常によかった、と思っています。社会は複雑性に満ちみちているから自分の存在感が乏しくなり、相手は誰でもよくなる(親でも子供でも、も含まれる)、色いろな見方の間に複数の補助線を入れて、価値の遠近法をもつ知的体力を、という鷲田説がよくこなれていました。最後に、福田康夫の「あなたとは違うんです」を引用されたところは傑作でした。

実は私自身、遠近法と補助線のことを、専門にしていた「環境学」の観点で、「隻眼先生の環境マンダラ」なる連載を04〜05年頃に書いていまして、当時はまだ鷲田教授の専門が臨床哲学なることを知らなかったのですが、「読ん得」の内容との共通項を多く展開したつもりです。私の環境学は、研究者がシステムの外部からの観察者となって他律的に汚染測定、汚濁除去や人体影響を扱うのではなく、自己と他己の関係、あるいは自分と環境との間に補助線を入れて関係性を見定めるという発想でした。最近、「エコ」「地球にやさしい」「持続的」など「環境」を接頭する表現法にはおおいに違和感があるのです。なお上記連載文は私のHP(http://www.sueishi.com)でご覧になれます(ペンネームは流石です)。人間が普通は両眼で遠近法を使っているがこれに馴れきっているため、逆に隻眼で一旦見えにくくして・・・・、という仕掛けなのです。補助線の典型例が、「風が吹けば桶屋が儲かる」の中間に出てくる、風→埃、埃→目病、目病→三味線、三味線→猫・・・・・というような中間項が補助線でもあります。この方式で環境のエンド・オブ・パイプ方式を批判した論文はすでに1978年6月に書いています(拙稿「環境と経済が調和する時」『経済評論』27巻6号)。

さて、記事の最初で大槻さんが、「こちらの目論見は冒頭から打ち砕かれた」とあるのが私には気になるのです。鷲田総長がどんな表現をしたのかは分かりませんが、『蟹工船』の流行を懐疑的に見ておいでですね。私の以下の経験と比べてみて下さい。

雨宮処凛(あまみやかりん)をご存知でしょう。作家ですが、反貧困ネットワーク副代表で、今年のメーデーでは高木 剛連合会長と一緒に壇上に並んでいました。「蟹工船ブーム」の火付け役ともいわれています。今年の2月17日(日)、京大会館で市民社会フォーラムが主催する「雨宮処凛と“すごい生きかた”を語り合おう」という催しがありました。彼女の本を少しは読んでいたし、近くのことでもあるし、病躯を押してでかけました。雨宮の話題は本の内容の延長上にあって至極当然ではありましたが、問題提起をした「いわゆる難民」には、ネットカフェ型や非正規雇用者以外にも、性同一性障害者も含まれること、さらに聴衆のなかに、明らかにSingle Motherと思しき若い女性がやっと首の座った男児を抱いて、熱心に雨宮に聴き入っている情景が非常に印象的でした。

質疑時間になってすぐ初老の男性が立ち上がり、雨宮に食ってかかりました。哲学書を2冊挙げ、これを勉強して自己責任制を身につけよ、と反貧困活動を正面から批判したのです。私はすぐ反論に立ち上がるべきでしたが、こういう意見をいう手合いは人の意見を聞かないことを経験で知っているので、場の雰囲気が壊れてしまうことを懸念し、むしろ雨宮がどうするかに注意を向けました。しかし雨宮は無視したのです。

その直後、彼女が『週刊金曜日』に連載を始めた「らんきりゅう」の第1回目のコーナーに、最近ムカついたこととして、京都での男性の言い分を切って捨てました。これで私も溜飲を下げました。現在の反貧困活動は、相手がよく見えている「蟹工船」の場合と違っています。鷲田総長のいうとおりです。だけども知的体力を超えて、諸々の難民を見抜くことがマスメディアの仕事として浮上しているでしょう。長野で地域医療に従事している友人からは、厚生労働省の医療費抑制のせいで腎臓病患者に透析難民が増えていると報告がありました。低所得者を相手にした貧困ビジネスが繁盛している様子は、サブプライムローンと同類でしょう。

哲学という最強の武器をもつ城塞(学問の府)からの総長発言ではなかったか? というのが私の懸念です。「地域に生き(世界に伸びる)」というスローガンをもつ阪大で、初めて文系(しかも哲学)の学者が総長になった、ということを地域はどう見ているのでしょうか。

いま文部科学省は、総長選挙(選挙権は教授だけ)を止めさせたい意向だと聞いています。蟹工船時代だからこそ、学生にも地域住民にも大学長選出になんらかの参加の道を開くべきではないかとさえ考えます。私の意見は過激でしょうか?

●以上に関する大槻記者からの返事はなかった。その後の鷲田総長の発言をあちこちで見ていると、社交的な部分が多すぎると思う。また民主党の事業仕分け活動のうち科学技術関係で苦情をいうために駆り出された学長連と同行動をしたことは非見識だと思う。少なくとも仕分けの哲学的意義を述べるべきだったのでは。
●阪大から定期的に送られてくるPR誌を見ていると、鷲田総長の独壇場のようで、新聞にもよく登場されているから多分メディア価値が高いのかも。でも「臨床哲学」が貧困や病苦や無縁社会を救う場を見せてほしいのです。


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