末石月報 マスメディアの音量に歪曲される地域問題 (要約)

最近の各種選挙では、重要な争点を隠して経済成長ばかりが大合唱される。また地域問題では「持続可能性」がキーワードになっているが、かつての「エコ」と同じように俗流化していないか。やや逆説的になるが、広角的に考察する。

地域問題の核心は何か
「地域」関連の定型的なプロセスは無意味になったものが多い。都市と農村では解決すべき問題が全く違うし、いかに市民目線といっても惰性的な民主主義に制度疲労が起こっていると見ねばなるまい。筆者が以前から「大学を第二市役所に」と提起していた(例えば拙著『大学アフォリア』糺書房、2008)のは古い役所を無用にしていく発想であった。
 地域法制の淵源とされるイギリスの救貧法(1601)を、あるいは明治の元勲たちが関わった「本末論」などの影響を再精査する必要を感じる。

地域政策の決定者は誰か
「田園都市論」のHowardのキーワード「都市と農村の結婚」が「地産・地消」ていどで実現できるとは思えない。また貧困、自殺、限界集落などは個別所得補償ていどの政策では解消しない。中央集権を成立させている民主的意思決定制に問題がある。
 国政選挙の開票率が0%の段階で当確が出るのはなぜか。理由は出口調査にあるが、有権者は単に、選挙期間中の予想報道の正確さを立証する役割を果たしただけだ。RDD(random digit dialing)のわずか1500人ほどのサンプルで数千万人の代表値としてよいのか。マスメディアの下心が見える。マスメディアは全国ネットに露出している首長の支持・不支持ではなく、身近な地域問題への関与方法を指摘するような社会調査方法を編み出すべきだ。

地域の持続可能性と自立性
 地域問題の関連は複雑なのに、つねに「原因→結果」に単純化される。原因には既得権があって結果に対してだけ弥縫策を検討する。ここに加わった大音量が「持続的○○」だ。
しかし最近の研究書ではこれがほとんど無意味に使われている例が多い。
 環境論的関係性として注目されるのがvirtual waterで、この用語は1990年代初めのA. Allanによるが、筆者はさらに10年以上前に、「市民の水需要を水行政が満たしている」という認識の誤謬を指摘した。人生の中心課題に市民自身が参加する様式が欠如しているのだ。換言すれば、公共事業拡大のために需要予測を聖域化したのである。
 持続性と対立する概念が「自立性」である(sustainability vs. viability)。これを妨げているのがglobalizationである。経済成長率と人口増加率が連動させられていて、近代経済制がまだ不要な地域にODAを押し売りする。カネさえ持っておれば世界のどことでも取引できる、近代経済市場では環境税がリサイクルの動機づけになる、産業廃棄物をリサイクル資源と偽装する、等々が持続してよいのか。

市民参加とコンピュータ民主主義
 環境音量に左右されない地域主権の要諦は、生活の中心事項の決定への参画である。もちろん「食」と「住」。連呼・握手・土下座の選挙制度が市民・社会運動からの有効な選択肢を奪う。情報の<質>についての根本的な考察が必要だ。
 経済的な意味での競争は完全情報システムにおいてのみ可能だが、その実現は不可能なので、多数者が参加するコンピュータ会議の提案が行われている。多数の少数意見をボトムアップ的に総合していく参加型アプローチ手法が、単純多数決の民主主義を超克するはずだ。

地球温暖化と海域の熱閉鎖性
 より大きな具体問題は、地域問題の亜種としての海域がある。一般に海は定常開放系とみなされ、通常の汚濁は陸に戻って循環した。しかし廃熱はどうか。“熱の水冷処理→宇宙放散”の考えでよいのか。
 産業革命以来の炭酸ガス量の増加は正しいが、温暖化が原因で炭酸ガス量の増加を加速しているという説もある。しかし太平洋を対象に三次元グリッド調査を組むなどの研究費の浪費も問題だ。もう少し身近な日本海での熱の閉鎖系を仮説して、前記の合意形成システムを作動すべきではないか。
 日本海側の日韓の原発(合計44基)が水温7℃上昇させた排水量は3000t/sec。日本海に流入する量の1/100以下だが、さらに局所的考察も要る。若狭湾の11基、約1000万kWの廃熱は、大阪環状線内部のヒートアイランド10カ所分に相当する。異常である。韓国も中国も、さらに原発に傾斜しつつある。熱水塊が原発冷却用水取水口を襲うというSF「熱水列島」もある。
 原発は炭酸ガスを出さないというCMのウソ、英語の<Nuke>は核兵器と原発を同等に含むことなど、地域にフィードバックすべき課題が多い。東海村で暴発が起これば120km離れた東京で大惨事が発生するという科技庁のシミュレーションがあったのに、国松滋賀県知事(当時)が琵琶湖は「もんじゅ」から50km離れているから大丈夫としたこともこの典型だ。 

情報操作の主役と裏方
 ここで、「マスコミ世論調査の大罪」(『選択』2010年8月号)を読んだ。ジャーナリズムの本分は権力の監視であろうが、結果として世論を誘導していないか。最近NUMO(原子力発電整備機構)がCMを流しはじめだしたが、ガラス固化した核廃棄物の地層処分の目的には触れない。情報操作をマスコミが担わされている。裏方の存在(アメリカ)を忘れてはならない。
実例は限りなく多い。“平成の琉球処分”なる言説が典型を示している。

あ と が き
 東北アジア問題は、少なくとも100年前の日韓併合にまで遡って考えるべきだ。同じ意味で、地域問題も100年後を見通す視線が必要だ。大学には専門が4千もあり、区役所でも担当係が縦割りで30はある。こういう分業に従って市民が生活させられているとすれば、地域主権実現の望みはない。

注:本稿は、Int’lecowk(国際経済労働研究所機関誌)2010年10月号に登載した論説の要約である。今執筆すれば当然福島事故問題にも付言するだろう。
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