■恩師の掌からの相続財産
1994年1月1日 悠(HARUKA)  11巻1号


 恩師の大きさは、まさに亡くなられてからわかるものである。親の恩もよくそう言われているが、親は子どもに恩を売ることがある。しかし直接恩を売る先生を私は師と認めない。


 最近の先生と学生の関係は、いわば友達的なものが歓迎されているようだが、師弟の関係は、本来きわめて厳しいものである。要は、師弟間の対話の作法が日本ではまだ確立されていないのだ、と私は思う。第三者を介したtrialogueしか日本では意味がいないのである。私の場合、この第三者になって下さった二人の先輩に、お礼を言わねばならない。 私の恩師は、天にも地にも石原藤治郎先生以外にない。石原先生に反抗して大学院を中退した私は、先生の推薦で無試験で就職できたところも断って、一般競争を突破して大阪市に脱出したのだが、わずか三年後、新設学科へ講師として帰れという命令が先生からやってきた。助教授ならあという拒絶のための条件を出したものの、しばらく辛抱しようかと諦めて赴任したところ、助教授の辞令をもらってビックリした。後年同窓会の席で大阪市の元局長から、「石原千志得はお前が大阪市に入った直後に、末石を必ず大学に戻すからそのつもりで」と言われていたのだと教えられ、私は先生の掌の中で踊っていたのかと思い知らされた。これが第一の第三者である。


 大学紛争中、京大のボスの一人として大学の行く末を案じておられた先生から、私は同年輩の教授二人とともに大学の後事を託された。こういうとき先生はいつも多少息苦しそうに話されたが、私はまだこれを対話と考えていなかった。「掌中」はもうごめんだ、といつも考えていたので、阪大が呼んでくれたのをいい機会に、「先生とは違う方法で先生の教訓を実践したい」と言上して勇躍転勤をした。ところがまた阪大の先輩教授から、「末石は俺の五男だと思っとるのになかなか仕事の報告に来ん、と怒っとられるぞ」と告げられた。恩師を完全に認識したのはこの時であった。私は弟子でなく息子だった!


 直接弟子に向かって息子と宣告したら、それはキザというものだ。教育財産の相続は無税でできるが、受講生全員に財産を分け与えることはできない。私は先生から大学行政の秘訣ともいうべき途方もない財産を背負ったのだと自覚している。大学冬の時代を迎えてこれはますます大きな財産になってくる。


 それにしても大学教授は小粒になったな、と思う。数年前、京大関係者のある会合で戦中の石原先生のエピソードを当時学生課員だった方からうかがった。京都の某地に軍が飛行場をつくるため京都の全大学の学生に動員令が出て、先生が総責任者になった。しかし軍の学生処遇がきわめて悪く、改善せねば全員引き揚げると談判して、本当に全員を引き揚げさせたのだそうだ。居合わせた者全員が先生の気迫にのまれたのだという。今私たちに必要なのは、石原先生が心底学生のために駆使された、見えないカリキュラムなのである。