■市民研究宣言 T
     
1994年7月20日 千里リサイクルプラザ研究所 機関紙『しみんけんきゅう』創刊号


ナイヤガラの滝、16年ぶりの再々々々々訪。1年に滝が30p後退するというのは実感できないが、広告つきの展望塔が乱立し、滝壼の下流では茶色の洗剤の泡が渦巻いていた。前はこういうことはなかったのに。水道の水はくさくて、とても飲めたものではなかった。


■私の役割

 いきなりしかめ面をお見せします。所長の役割はたくさんありますが、私は研究所の「顔」でもあるので、自分でいちばん好きな顔を出しました。写真を撮ったのは昨年の9月中旬、大学はまだ夏休みでしたから、「顔」は所長室にドーンと座っているべきなのに、なぜナイアガラの滝にいたのか、そのわけをまず述べましょう。

 私は阪大時代に自分で事務局長を買って出て、9年問も準備をし、1990年に吹田のメイシアターで、第5回国際都市雨水排除会議を開きました。その後、滝とつい目と鼻の場所で第6回会議があったので、私の申し送り事項が実現されているかどうかを検分に行ったのですが、多くの世界の友人にCitizens Institute(市民研究所) 名刺をバラまいて宣伝にもつとめました。しかし私にとって、この滝はもっと大きな意味をもっています。

 私は「霧の乙女」号に乗って滝のしぶきを浴びたりすることには全く興味はなく、写真の真うしろで、水平から垂直への流れの変換点を飽くことなく眺めます。ここには水の力学の醍醐味があって、押しよせてくる水流にさからって「滝があるぞー」と、轟音とは違う別の情報を上流に向けて発信しているのです。

 ナイアガラの滝には時々、デアデヴィル(daredevil=向こうみず)が現われて、50mを落下して生還を期す冒険をするのです。先駆者は1901年、わが身を樽に閉じこめてみごとに成功した、42歳の女性教師テーラーさんでした。実際には禁止されているのに、後を断たないのだそうです。しかし冒険には周到な準備も必要です。デアデヴィルは真っ暗な容器の中で奔流にもまれながらも、全神経を集中して滝の発信情報をキャッチしなければ、十字をきって神に祈るべき瞬間もつかめないでしょう。

 展望塔に登るのも一興ですが、滝の流れを凝視することは予知能力を研ぎすますこと、と私は心得ています。こうして私は、機会があるつど滝をみつめるのです。

 私が市民研究員によく話す「刑務所の塀の上を歩いているつもり」というのも、デアデヴィル(敢えて悪魔になる)の心境です。『しみんけんきゅう』もこんな塀の上を一歩々々歩いて行きます。臆病になって塀の外へ降りたら計画倒れ、中へ引きずりこまれたらもう生還はないのです。

 ところが民間企業のものを含め、研究所の機関誌やPR誌はすでにゴマンとあるようです。私の家にも月に30種類くらいも送られてきて、全部に目を通すひまは全くありません。でも『しみんけんきゅう』を同じ運命にはさらせません。ではどうすればよいのか。それがこれから毎号私が巻頭で書く、この欄の役目です。少しキザですが、市民研究の展開の面白さも含めて、私の筆鋒(ひっぽう)を、専門家やマスコミにも向けねばなりません。



■研究ボランティア

 一昨年、千里リサイクルプラザが創設された年は、ちょうどブラジルで地球サミットが開かれ、世の中は地球だ環境だとうるさいほどでしたのに、去年はもう、急にさめてしまったようでした。リサイクルにしろ、地球にやさしい生活にしろ、もう当たり前のことになって話題性がなくなってしまったのか。そんなはずはありませんし、プラザの研究所も、地球サミットを睨みながら開設したわけではありません。

 市民がボランティアとして研究をするということが主眼なのでして、このような視野で、私は新しい本流づくりを見通しているのです。その本流とは、身近な都市問題から始めて、地域の問題、そして遠くからかすかに伝わってくる地球からの本質的発信をつかまえるということです。もし一般市民がボンヤリしていると、一部の技術専門家による「環境独裁主義」が出てくる可能性があります。今、予見されている地球環境の危機を回避するには、技術独裁しか道がない、と言っている人もいるのです。

 しかしさいわい、まだそうさせないための時間的な余裕はあります。ボランティアが研究をすることだけが対案ではありませんが、科学技術開発や国際政治を含め、過去約500年の人類の行為の延長上で、危機が予見されているのですから、あらゆる手段でこの延長線の方向を転換する試みが要ります。でもこの切り換えをいつ誰がすればいいのか、正確に答えられる人はいないでしょう。なるべく早く、なるべく多くの人が、としか言えません。

 吹田市が新しい廃棄物処理総合計画に着手したのは1986年でした。これは、環境庁が宣言した地球環境元年の3年前ですから、やはり地球とは直接の関係はなかったのです。廃棄物最終処分地問題でゆきづまつた吹田市が、新しい計画の実行を決断したのです。最初、市の資金援助による「廃棄物総合研究センター」を阪大に、という構想もありましたが、文部省の出先は前例がないといって無視しました。そこで第3セクターとして、千里リサイクルプラザの設立が検討され、3本柱として「市民大学」、「市民研究所」、「市民工房」が出てきました。

 関係者の熱意と努力についてここでは割愛しますが、折からのバブル景気の中とはいえ、<たかがゴミ>の問題で10億円の基金を集めることは相当の難事業でした。私は15年前くらいから現在の「市民研究」を理想像として描いていましたが、もし阪大のセンターが実現するか、財団の基金が100億円にでもなっていたら、私は塀の上には上がらずに、研究所を専門家だけで固めたかもしれません。目的達成型の研究にはその方が都合がよいからです。しかし専門家を雇えない財団規模になったので、常識的な意味では「無償奉仕」に期待するボランティア研究員を制度化する必要に迫られました。そのかわり、私のいう理想を追求する道が開けたのも偽らざるところです。

 しかしボランタリー精神は、「無償奉仕」に重点をおいてはいません。「自発性」や「先駆性」こそ、ボランティアがもつべき誇りです。私が研究所長になることは、先に石を投げた市当局との阿吽の呼吸で決まりましたが、私には先駆者になることに一抹の不安もありました。70歳までは頑張るとしても、デアデヴィルの後継ぎをどうするかです。しかし、財団の初代の専務理事に就任した能智さんの「全国公募したらよろしいがな」で、心配はふっとびました。



■なぜ吹田なのか

 <たかがゴミ>ですが<されどゴミ>です。好きなだけモノを造って売って買って、不用になれば捨てる。このいっけん当たり前の生活様式が実は、複雑怪奇な環境問題の原点です。

 話の順序が逆になりましたが、やはり「市民研究」のきっかけを述べねばなりません。この詳細については、『(財)千里リサイクルプラザ研究所研究報告書1巻1号』(1993年5月発行)に、いかめしく「市民研究の意義と役割」と題して書いておきましたから、ご希望のむきはお申し出ください。

 1975年前後の石油ショック時代、経済学者もマスコミも市民も大騒ぎをしている間に、生産企業の技術者は世界に冠たる省エネ技術を開発し、廃熱の中の公害物質も回収されて、都会の空もきれいになりました。もちろん自動車の出す窒素酸化物や発ガン物質は別ですが。

 その頃、仁丹の森下泰さん(故人)が環境庁の政務次官でした。そのご当人が「環境はきれいになったので、もう環境庁は要らない」と言ったのです。そして現に、自治体では環境分野を縮小して、人員を配置転換したところもありました。私はこのとき、環境という専門だけでは真の解決はできない、と直感しました。開発推進派の論理にとって、「環境」だけをふりかざした理論は、まだ赤子の手をひねるに等しかったのです。

 私が「環境」を基盤にしながらも、「地域」的展望からあらゆる葛藤・軋轢の問題を横断的に解決する方法論の研究を始めたのはこの時です。こういう仕事を地域住民といっしょにできるような新しい「地域学部」を阪大に創ろうという目的を掲げて、地域学研究会を組織したのですが、文部省は研究費すら認めてくれませんでした。かわりにトヨタ財団が支援してくれました。

 皮肉なことに、トヨタ財団で私の研究申請を審査してくれたのが元文部次官の天城勲さんで、「掛川市(静岡県)を調べればよい」と助言も頂きました。そして榛村純一市長に出会いました。市長は就任早々の1979年、日本で初の「生涯教育・生涯学習都市」を宣言し、さらに、市民を巻きこんで、新幹線のこだま号を掛川に停車させる運動を展開していました。その他にも、移動市役所の開催や生涯学習センターを中心にした分散拠点のネットワークづくりなど、その情熱と指導手腕にほだされた私は、「地域と大学の結合」拠点を掛川におきたいとさえ考えました。掛川には大学がありませんし、ひかり号での東京日帰りにくらべたら「こだまで2時間半は、むしろ人間的な距離だ」という屁理屈さえたてました。

 つまり、研究・教育スタイルの改革のために、大学がボランティア性を発動するには、ある意味で先駆的な試みをしつつある地域へ入りこむ必要があったのです。

 当時、ごみの分別回収の先駆都市としては、沼津市(井出敏彦市長)が有名でしたが、ごみだけでは地域学としてはモノ足りない、大阪はあまりにも巨大すぎる、などと思い悩んでいたまさにそのとき、さきほど述べたように吹田市からの申し入れがきたのです。

 いまだに確認はしていませんが、私の友人で、吹田の総合計画に思想的な新風を吹き込んだシンクタンクP杜の社長が、私をテストしているに違いないと信じればこそ、また当時の榎原一夫市長の構想にはごみ対策だけでなく、「大学ひろばのある街づくり」が謳われていたことで、私は完全に納得したのです。このようななりゆきを、私は「天の時・地の利・人の和」と表現します。千里リサイクルプラザの財団法人設立の記念講演でも、こう話しました。

 しかし、吹田の構想実現過程で市の幹部は、大阪府や厚生省などから「なんで吹田でせんならんのや」という質問攻めにあうことになります。間接的には私にも向けられていました。でも、私の屁理屈が行政施策の転換に役立つとも思えません。私は答として、こう反論することにしたのです。「なんで吹田やったらあかんのや!」

 そうです。吹田市が日本と外国との塀の上を歩けばよいのです。

 今、経済超大国ボケして、右も左も上も下も、減税・消費拡大を大合唱している日本は、国際的には潮笑の対象になっています。日本の観光旅行客に外国の商人は、腹の中では苦々しく思いながら、顔はお追従(ついしょう)笑いをしています。しかし外国出張のつど、古い友人に会いますと、必ず日本人の「集団主義」、「有名ブランドの買いあさり」、「ホテルでの傍若無人ぶり」を私にずけずけと言ってくれるのです。ある国際会議を名目にして、観光旅行をした某市の全会派の市会議員団は、会議の開会式に出ただけで、ホテルでどんなに行儀が悪かったか。私はまだ団長の名前も覚えています。

 国境という塀の外は刑務所の中と同じです。だからといって日本の中で、「なんで吹田や?」とか、小さな禁欲主義の足の引っぱりあいに明け暮れしていたら、居心地はよくても、日本人総ボケになってしまうのです。



■世界一の市民研究を

 人口が約75,000の掛川にこだまを停車させるには、市自体が30億円もの出資をせねばなりませんでした。榛村市長は、これを市民の「こだま貯金」でまかなうかわりに、市民が自分たちの掛川駅だと認識できるように、植樹の種類数や駅前の舗装の種類などについて、全国の新幹線駅をすべて自分で調査して、掛川にしかない日本一の駅前の設計を実現したのです。同じように、日本茶の効用をはじめ、市民による日本一の掛川の発見をうながして、市長は『地球田舎人をめざす』1993年、清文杜)という本を書いたのです(代筆はいっさいなし)。田舎とは掛川のことですが、日本の代表だという意気ごみがあり、世界よりも大きい地球も視野に、というのです。

 千里リサイクルプラザの準備段階で、私は吹田を日本一にとは一度も言いませんでしたが、掛川のことはずっと念頭にあって、「市民大学」、「市民研究所」、「市民工房」がそろえば、世界一になると確信していました。イギリスにやや似たものがあることをプラザ発足前に知ってはいましたが、第1期でも第2期でも研究員の公募の時に、「世界に例がない市民研究を始めよう」と宣言しました。そしてとうとう昨年、自画自賛ではなく、第三者にもそう言ってもらえるようになりました。プラザの環境問題基礎講座に講師として登場した大阪産大の河合教授と、領事館経由で視察にきたイギリスの廃棄物関連技術調査団です。

 今、私は「後継ぎは世界から」という気になっています。下の笑顔はその気焔(きえん)をあげているところです。



千里リサイクルプラザのメンバー。筆者の左は吉村哲彦主担研究員(金蘭短期大学教授)、右は吉村兼重専務理事(吹田市環境事業部長)と井上信一前業務課長。