■座談会 その5

― 自分の中の末石先生

平井 今僕はまた学校に戻っているんやけど、働いていた時は「常に遠くで見られてるな」って思ってた。
一同
西村 そうや、よう言うてたもんな。
平井 例えば役所に提出する雨水の流出量の計算書を書く時、明らかに先生が嫌いな公式(*1)を使わなあかん時があって、できあがった書類を見てると末石先生の顔が・・・。
村上 どんな顔してるんですか。
平井 苦虫を噛み潰した顔。「いや、違うんです」って心の中で言い訳して。
一同
平井 言い訳をしようとすると、先生の顔がす〜っと消えて。
高橋 俺もね、講義で一番印象に残っているのが、「君らは環境の講義を受けて学んでいるわけやけど、必ずしも環境問題のプロにならんでもいい。皆それぞれ卒業して就職するから、自分がなった職業からここで勉強したことにアプローチすればいい」という言葉で、それが呪縛になってる(笑)。卒業してから作品的な写真を撮ってるんやけど、いつもどこかで「環境問題のことやらな」って思ってる。
羽深 私すごく印象的だったのが、先生が有吉佐和子の『複合汚染』の話をした時に「こういう形もあり得るよ。人文学部の“人文”というのはどういう意味かと言ったら、人の文化だ」と言われたこと。自分が研究したことをそのまま出すんじゃなくて、何かの形にして出せばいいんだなぁ、と。これからは何でも細分化されていくだろうけれどそこだけに留まらなくていいんだ、むしろ細分化されるから学問が面白くないんだ、という話だった。
僕は修論で水質をテーマにしたんやけど、社会学的な合意形成をやりました。仕事では環境のことをしていて、環境におんねんけど逆にそこから離れた社会学や歴史に関心がある。修士で同期のYさんはもともと経済学をやっていて、阪大に変わってきて環境経済で修士を取った。末石先生からしたら正統に(先生の意思を)引き継いでいる人なんやけど、周りからしたらさ、読んだってわからへん、どこどこの数式がって言われても。そんなんも受け入れるという幅の広さがある。末石ゼミから環境経済に入った人は多い。そういう意味で「末石曼陀羅」を企画したのは、京大、阪大、精華大、県大というまた違う世界で関係があるから。
高橋 教わった人たちは、みんな共通の方向性をもっているはず。
櫻井 こうして話聞くと、みんな残ってるんやね、日常に。
村上 そのへんに出てくるんですよ、末石さんが。ぽこっ、ぽこって・・・。
平井 そういうの含めて、「見られてる」。
一同 そうそう。

(*1):合理式。先生曰く、「ただの算数」。

(編集コメント)在学当時を思い出して話は盛り上がり、夜を明かしても尽きない勢いで、まるでミニ同窓会のような楽しさでした。
文中に末石先生が指摘されている言葉の使い方を紹介しましたが、やはり使ってしまいます。なかなか難しいものです・・・・。

写真:高橋、編集:櫻井


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